ヴォルムス
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紋章地図

基本情報
連邦州:ラインラント=プファルツ州
郡:郡独立市
地域:ラインヘッセン地域
ライン=ネッカー地域
面積:108.77 km2
人口:

83,850人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:771 人/km2
標高:海抜 86-167 m
緯度経度:北緯 49度37分55秒
東経 8度21分55秒
UN/LOコード:DE WOR
郵便番号:67501?67551 (旧: 6520)
市外局番:06241, (一部: 06242, 06246, 06247)
ナンバープレート:WO
自治組織
自治体コード: ⇒07 3 19 000
市庁舎:Marktplatz 2, 67547 Worms
stadtverwaltung@worms.de
ウェブサイト: ⇒www.worms.de
ツーリズム
ツーリスト・インフォメーション:Neumarkt 14, 67547 Worms
Tel.: 06241/25045
touristinfo@worms.de
行政
上級市長:ミヒャエル・キッセル (Michael Kissel) (SPD)
市議会:
(2004年6月13日の選挙):CDU: 21議席 (-1)
SPD:19議席 (-4)
Grune: 4議席 (+1)
FDP: 3議席 (+1)
Burgerforum: 3議席 (+1)
Freie Wahler:  2議席 (+2)
ヴォルムス大聖堂の内部 ニーベルンゲン橋 ヴォルムス中央駅

ヴォルムス(標準ドイツ語:Worms)は、ドイツ連邦共和国の都市。ラインラント=プファルツ州に属する。宗教改革に際して、マルティン・ルター帝国追放刑にすることを決定した帝国議会が開催された地としても知られる。街のヴォルムス大聖堂は、ロマネスク建築の代表的な建造物である。かつてはヴォルムスガウ(Wormsgau)とも呼ばれていた。
地勢・産業

ライン川の左岸に位置する。アウトバーンの61号線が街を通過し、近くで6号線と交差する。ワインの醸造などが盛ん。ヴォルムス大聖堂など歴史的な建造物があり観光客も集める。近隣の都市としては、約40キロ北にマインツ、60キロ北東にフランクフルト・アム・マイン、20キロ南にマンハイムが位置している。

住民構成は、中部ドイツ語のうちプファルツ語に属するクーアプファルツ語(ドイツ語版)を言語とする話者が多い。
歴史
古代

Wormsという地名は、ローマ帝政期の文書に言及される、ケルト人の集落名Borbetomagusに由来する。2世紀以降、それと並んで、この地の公式名Civitas Vangionum が出現する。これは、カエサルによって征服され、この地に移住させられた、ゲルマン民族の一部族に因む名であった。以後この地は、平和的発展を続けたが、 リーメスが破壊され、アラマン人によるライン右岸の占領(3世紀後半)によってこの地がローマ帝国の国境地帯になるに及んで、その発展は止まった。 アラマン人の攻撃を防ぐために防壁が築かれ、Legio II Flaviaの一部隊が置かれた。5世紀初め、ライン国境地が崩壊した後、413年 ブルグント人の国が生まれた。この国は435年/436年Aetiusとフン族によって滅ぼされた。同時代の文献には国の首都の名が挙げられていないが、英雄伝説やそれを基につくられたニーベルンゲンの歌を始めとする物語がそれをヴォルムスとしているのは、確かな伝承によったからであろう。同国の滅亡を生き延びた人々は、443年’Sapaudia’(サヴォワ)に移住させられた。この地はアラマン人が支配したが、496年かれらはフランク族に屈服し、ライン川上流地帯に後退した [2]
中世

4世紀半ば以降司教座が設置されたと思われるが、メロヴィング朝時代のヴォルムスについては、確たる証拠となる文物はほとんどない[3]。「7、8世紀のフランク〔王国〕の行政においては、ヴォルムスは属州上ゲルマニアのかつての中心地〔マインツ〕をしのぐ地位を占めていた」[4]カール大帝時代、アーヘンとヴォルムスは大帝の「お気に入りの滞在地であり、・・・、玉座 regnum の主要な所在地 sedes principales」であった[5]10世紀になると王権の後援のもとに司教による都市支配が確立した。司教ブルハルト(Burchard; 1000-1025)は都市君主として大聖堂の新築(1018年献堂式)や荘園法の制定による治安の確保等に尽力した[3]。市民層も政治力をつけていき、叙任権闘争においては、皇帝側に立った[6]。皇帝ハインリヒ4世を支持し、ヴォルムス司教を一時都市から追放した市民は、1074年皇帝から代償として関税特権を獲得した。このヴォルムス市民の闘争は、同年大司教と衝突したケルン市民のモデルになった[7]。38人のドイツ司教のうち24人がハインリヒ4世の招集に応じた 1076年のヴォルムス公会議では、グレゴリウス7世の廃位が宣言されている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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