ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ
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ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(マネッセ写本ヴォルフラムス=エッシェンバッハにある記念碑。1861年除幕、マクシミリアン2世(バイエルン王)により建立アーベンベルク城にあるヴォルフラムの像.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は、中世ドイツ詩人ニーベルンゲンの歌とともに中世ドイツ文学の最も重要な叙事的作品とされる『パルチヴァール』または『パルツィヴァール(ドイツ語版、英語版)』[注釈 1]ドイツ語: Parzival)は彼によるものである。叙事詩の他の2作品、十字軍文学でありながら「寛容の精神」を訴える『ヴィレハルム』と若い男女の瑞々しい恋を悲劇の予感を漂わせながら描写する『ティトゥレル』も魅力的である。また、ミンネザングの歌人として、写本によって伝えられた作品の数は少ないが、極めて優れた抒情詩も残している。

なお、詩人名がエッシェンバハと表記されることもある。
生涯
作者の生没年・出身地・身分・教養 

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは当時の人々にとって、また現在の研究者にとっても中世盛期ドイツの最も重要な詩人とされている。著した作品は、叙事詩『パルチヴァール』『ヴィレハルム』『ティトゥレル』および叙情詩である。

伝記的記録としての史料は残されていない。これは同時代のハルトマン・フォン・アウエゴットフリート・フォン・シュトラースブルクにおいても同様である。伝記的事実については、もっぱら詩人自身の作品および後世の詩人の記述に拠って推測するほかない。『パルチヴァール』の成立が13世紀冒頭、『ヴィレハルム』と『ティトゥレル』が13世紀10年代と考えられるので、それらによって生没年を推定できるだけである。

出身地はニュルンベルクの南西36キロ、今日のヴォルフラムス=エッシェンバッハと見なされている。現在その小さな町には、バイエルン国王マクシミリアン2世 によって建立されたヴォルフラムの立像(1861年5月1日除幕)と1995年に開館した記念の博物館 Museum Wolfram von Eschenbach が存在している[1]

身分や学問的素養についても確かな事は分かっていない。『パルチヴァール』で「楯とる職が私の本務である」(あるいは「楯とる職が私の世襲の身分だ」)と称していること[2]などから、低位であれ騎士であったと思われるが、後世の詩人が「高貴な騎士」と称えるほど高位の身分であったかは疑わしい。もっとも、「楯とる職が私の本務である」についても、ヴォルフラムが主要登場人物のイデオロギーを自分のものとして騎士物語(Ritterroman)の作者(Romanautor)であると自己紹介したものと解釈する研究者(Nellmann)、あるいは、いわゆる正規の教育を受けた人の文学に対抗する姿勢(Zeugnis der literarischen Polemik gegen die gebildete Klerikerdichtung)を打ち出したものと解釈する研究者(Bumke)もいる[3]

『パルチヴァール』では、「私は一文字も知らない」、『ヴィレハルム』でも、「書物に書いてあることからは何ひとつ学んでいません」と述べているが、これらの文言によって、ヴォルフラムは文盲であったとか、無教養であったとかと考えるべきではない。むしろこれは、自信を秘めた「装われた謙遜」[注釈 2]と解すべきで、学才と教養を誇り、フランス語(やラテン語)の原典を忠実に翻訳してドイツ語の文芸作品を物する、そうした信条のハルトマンらとは異なり、謙遜に見える言辞の前後に示されたように、原典の一字一句にとらわれず、己の知恵を傾けて自由に物語を語る覚悟を、ヴォルフラム流に表明したものであろう[4]。ヴォルフラムが当時の学問上の知識を包括的に身につけていたことは明らかである。彼の作品にはあらゆる分野(博物学地理学医学天文学など)で専門的に扱われるさまざまな知識や、神学的考察がふんだんに盛り込まれている。また、同時代の古フランス語フランス文学にも通じていたと思われる[5][注釈 3]
有力な後援者と滞在地 

ヴォルフラムは作品の記述から生涯をとおしていくつかの宮廷に仕えていたと推測されている。

『ヴィレハルム』の冒頭では、原典の仲介者(多分、作者のパトロン)として、テューリンゲン方伯ヘルマン1世が紹介され、作品末尾近くでも、方伯への言及(おそらく故人として)がなされている。そして、『パルチヴァール』にも、ヘルマンの宮廷にヴォルフラムが滞在したことを示唆する記述がある。ヘルマン1世は、「詩文の最初の枝をドイツ語の畑に接ぎ木した」ハインリヒ・フォン・フェルデケ (Heinrich von Veldeke) やドイツ中世最大のミンネゼンガーであるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデのパトロンでもあったように、当時の文芸の保護者であった[注釈 4]。後に、方伯の宮廷を舞台に「ヴァルトブルクの歌合戦」が行われたとの伝説が生まれ、後代リヒャルト・ワーグナーがこの伝説をもとにしてオペラ『タンホイザー』を作曲したことはよく知られている。このヘルマン1世のテューリンゲン方伯領取得が1190年、死去は1217年4月25日である(それゆえ、『ヴィレハルム』成立は1210年代とされている)。

ヘルマン1世の他には、『パルチヴァール』の聖杯城と関連付けられることの多いオーデンヴァルトヴィルデンベルク城[注釈 5]が、ドゥルネ家の所有であったので、ドゥルン男爵家とのつながりが推測されている。また、同じ『パルチヴァール』で「私の主人ヴェルトハイム伯」(min herre der graf von Wertheim)[8]とヴェルトハイム伯爵家が言及されている。しかも異本では「ヴェルトハイム伯ポッペ」(grave Poppe von Wertheim)とある[7]。これはヴェルトハイム伯ポッペ1世ないし2世のことで、前者は1165-1212年の文書に、後者は1183-1237年の文書に登場する[9]。やはりこの家もヴォルフラムの主君ないし支援者であったと思われる。ヴェルトハイム伯家はマイン川中流域とタウバー川地帯に広大な所領を有し、ヴォルフラムの故郷とされるエッシェンバッハにも土地を所有していたので、ヴォルフラムのキャリアはヴェルトハイム伯ポッポへの奉仕として開始された、とする推測(Bumke)がなされている[10]。ヴィルデンブルク城を建設したルーペルト・フォン・ドゥルネの名前はヴェルトハイム伯ポッポやフランドル伯フィリップの名前とともにハインリヒ6世1190年に発した文書に証人として記されているので、フィリップがルーペルトとポッポにクレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』を紹介し、この作品に関心をもったルーペルトとポッポはこれのドイツ訳をヴォルルラムに託したかもしれないという魅力的な推測(Heinzle)もされている[11]

さらに、トリューエンディンゲン[注釈 6]に居城を有していた男爵家(Das Geschlecht der Freiherren von Truhendingen)[12]アーベンベルクの伯爵家[13]も支援者と推測する研究者もいる。


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