ヴォルフガング・ショイブレ
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ドイツ政治家ヴォルフガング・ショイブレWolfgang Schauble
ヴォルフガング・ショイブレ(2006年3月)
生年月日 (1942-09-18) 1942年9月18日
出生地 ドイツ国 フライブルク
没年月日 (2023-12-26) 2023年12月26日(81歳没)
所属政党ドイツキリスト教民主同盟
配偶者インゲボルク・ショイブレ(1969年 - 2023年)
サイン
公式サイト ⇒Dr. Wolfgang Schauble MdB: Dr. Wolfgang Schauble MdB
第13代 ドイツ連邦議会議長
在任期間2017年10月24日 - 2021年10月26日
大統領フランク=ヴァルター・シュタインマイアー
財務相
内閣第2次メルケル内閣
第3次メルケル内閣
在任期間2009年10月28日 - 2017年10月24日
内相
内閣第1次メルケル内閣
在任期間2005年11月22日 - 2009年10月27日
内閣第3次ヘルムート・コール内閣
在任期間1989年4月21日 - 1991年11月26日
国務相兼首相府長官
内閣第2次ヘルムート・コール内閣
在任期間1984年11月15日 - 1989年4月21日
その他の職歴
第6代 キリスト教民主同盟党首
1998年 - 2000年
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ヴォルフガング・ショイブレ(ドイツ語: Wolfgang Schauble、1942年9月18日 - 2023年12月26日)は、ドイツ政治家ドイツ連邦共和国財務相(第2次-第3次メルケル内閣)。2017年から2021年までドイツ連邦議会議長を務めた。

ドイツ連邦共和国国務相兼首相府長官(第2次ヘルムート・コール内閣)、ドイツ連邦共和国内相(第3次コール内閣・第1次メルケル内閣)、ドイツキリスト教民主同盟(CDU)党首などを歴任した。
経歴
生い立ち

1942年9月18日フライブルクに生まれる。1961年アビトゥーアに合格。フライブルク大学ハンブルク大学で法学と経済学を学ぶ。1966年、第一次法曹試験に合格し大学を修了。1970年、第二次法曹試験に合格。翌年法学博士号を取得する。同時にバーデン=ヴュルテンベルク州の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。1978年から1984年まではオッフェンブルク弁護士として働いた。

弟トーマスも政治家で、バーデン=ヴュルテンベルク州内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの連邦議会議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。

1992年エアランゲン・ニュルンベルク大学から、2005年11月に母校フライブルク大学から、2009年6月にテュービンゲン大学から、それぞれ名誉博士号を授与された。ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側にショイブレの署名がある
政界入り

政治活動に参加したきっかけは、1961年ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の青年部(Junge Union)に参加したことである。在学中、ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。1965年にCDU党員となり、1969年から1972年まで南バーデンの青年部委員長を務める。

1972年、連邦議会に初当選。1976年から1984年まで党のスポーツ委員会委員長を務め、1981年から1984年までは連邦議会院内総務も務めた。
コール内閣

1984年、第2次ヘルムート・コール内閣に国務大臣兼首相府長官として入閣。1987年ドイツ民主共和国(東ドイツ)国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーによる西ドイツ訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第3次コール政権の成立に伴い、1989年4月から内相に転じる。1990年東西ドイツ再統一条約交渉には西ドイツ側代表として参加し、同年8月31日に調印した。

ドイツ再統一直後に行われた連邦議会選挙戦の最中である1990年12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は車椅子生活を送っている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、後にこの事件を謝罪し、2004年には仮退院した。この選挙戦では野党ドイツ社会民主党(SPD)の首相候補オスカー・ラフォンテーヌも精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。観劇するショイブレと夫人(2007年、ベルリン)
CDU党首

1991年から2000年まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、1997年にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも2002年までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし、首相・党首の座に執着したコールは1998年の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。

コールの辞任直後にショイブレがCDU党首に就任するが、翌年になって、コール党首時代の1994年にショイブレが武器商人からCDU宛に10万ドイツマルクの不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが、2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には幹事長アンゲラ・メルケルが選出された。なお、汚職罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。

2001年ベルリン市長エーベルハルト・ディープゲンのリコールに伴う選挙では、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。2004年にも党重鎮として大統領選挙候補に取りざたされたが、クリーンなイメージに欠けるとの理由で早々に外された。
メルケル内閣

2002年ドイツ連邦議会選挙後には党副幹事長に就任していたが、2005年11月のアンゲラ・メルケル政権成立に伴い、14年ぶりに再び内相として入閣する。この入閣にも批判する声があった。

2009年ドイツ連邦議会選挙後は連立組み替えにより財務相に転じ、2013年ドイツ連邦議会選挙後に発足した第3次メルケル内閣でも財務相に留任した。


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