ヴォルフガング=ゲオルク=フリードリヒ・シュタウテ (Wolfgang Georg Friedrich Staudte、1906年10月9日 - 1984年1月19日)は、ドイツの映画監督。また、戦前は、俳優、声優としても活動した。
1945年以降、戦前におけるドイツの罪を念頭において、映画制作の活動を続けた。恐らく、同時期の映画監督ヘルムート・コイトナー(ドイツ語版)(Helmut Kautner)と並んで、名を成したドイツの戦後の映画監督のうちで、唯一人と言って良いほど、戦後の、いわゆる郷土映画の娯楽性から、そして、戦後ドイツ社会の歴史を顧みない態度から距離を置きながら、芸術性の高い映画創作を貫き通そうとした映画監督であった。W.シュタウテの映画作品には、プロフェッショナルな職人気質の手腕を見せながら、政治的アンガジュマンを示す作品が多く、それが娯楽作品であったとしても、そこには、単なる娯楽では終わらない、社会問題を提示する何かしらの要素が伴なっていたのである。[1] W.シュタウテは、俳優である両親フリッツ・シュタウテ
生立ち・来歴
この職業教育を受けている中、両親の血を受けてか、俳優への道も取り始め、1926年から32年まで、W.シュタウテは、最初はエキストラとして、その後は、俳優として、ベルリンにある劇場(シフバウアーダム劇場(ドイツ語版)、フォルクス・ビューネ劇場(ドイツ語版))の舞台に立つ。
映画俳優としては、世界恐慌が起こる1929年から活動を始め、翌年には、映画『嘆きの天使』で生徒役となる。
1930年には、アメリカ映画『西部戦線異常なし』の主役となる兵士フランツ・ケメリヒ(Franz Kemmerich)のドイツ語吹き替えを担当する。この時の体験が、若いW.シュタウテに大きな影響を与えたが、1933年1月にナチス党が政権を握ると、その年に、「進歩的活動」を行なったという理由で、一時、俳優として活動することの許可が取り消される。そのため、W.シュタウテは、生計を立てるために、声優やアナウンサーとしても活動し始めるが、40年代の初めまで、ナチス政権下でも、映画俳優として、20本以上の映画作品で役をもらっている。その中でも、とりわけ、ファイト・ハルラン(ドイツ語版)(Veit Harlan)が監督した反ユダヤ主義プロパガンダ映画『ユダヤ人ズュース』(1940年作)でも、ある端役を担った。
W.シュタウテの映画監督としての活動自体は、1935年以降、コマーシャル映画を撮り始めてからで、40年代に入ると、半国営映画会社トービス映画芸術有限会社(ドイツ語版)(Tobis Filmkunst GmbH)が新人監督タレント養成のために試し撮りさせたスタジオ映画を撮影したりしている。
1942/43年に、W.シュタウテは、ようやく初の長編劇映画『アクロバット 美しーーーい』のメガホンを取る。44年、彼が撮った映画『名前を盗まれた男』が、理由が分からないまま、禁止処分を受ける。それを受けて、W.シュタウテは、兵役免除の資格を失うこととなり、前線に送られる羽目に陥りかけていたところを、ベルリンのシラー劇場(ドイツ語版)(Schillertheater)の総支配人であるハインリヒ・ゲオルゲ (Heinrich George)の精力的な働きかけにより、とりあえず兵役から免れたのであった。こうして、W.シュタウテは、H.ゲオルゲ主演の映画『あの娘ホアニータ』の監督となる。この作品は、戦時中は『女が海に落ちた』の題名で撮られていたが、戦後の1952年になって、題名が変えられて初上映されることとなる。 ソヴィエト軍軍政部(SMA)に検閲を受けて、W.シュタウテがその制作を許された劇映画作品『殺人者は我々の中にいる』(1946年作)は、戦後ドイツで撮られたドイツ映画の第一作目であり、DEFAドイツ映画株式会社・デーファの第一作目ともなる記念碑的作品である。 当時西ベルリンに住んでいたW.シュタウテは、戦後直後の45年から約10年間、西ベルリンに住みながらも東部ドイツでも仕事をするという「越境者」の立ち位置で、しかも、それは、49年以降は、東西に成立したドイツ両国家、すなわち、DDR(ドイツ民主共和国、東ドイツ)とBRD(ドイツ連邦共和国、西ドイツ)の、二つのドイツの国境線を越えてという形で、映画作家としての活動を続けた。 この時期は、東西冷戦の政治的緊張が高まる中、西ドイツでも数本の作品を発表しながらも、W.シュタウテの活動の中心は、東ドイツであった。DEFA製作の下、48/49年に『輪転/ローテーション』を、51年に『臣民』を発表する。この両作品は、『殺人者は我々の中にいる』に続く、W.シュタウテの政治・社会批判的作品の第二弾、第三弾となるもので、とりわけ、ハインリヒ・マン (Heinrich Mann)の、同名の原作を土台とする『臣民』では、W.シュタウテは、ドイツのプチ・ブル小市民が持つ、「上には媚びるが、下には威張りくさる臣民根性」を痛烈に風刺した。 この作品の初上映後、西ドイツの有力な週刊誌『デア・シュピーゲル』は、W.シュタウテを「政治的に幼稚な人間であり、気が狂った平和主義者」[2]と揶揄した。本作は、1957年まで、西ドイツでの上映が禁止され、W.シュタウテ自身が「自己検閲」したカット版でようやく西ドイツでの「検閲」が通り、ミュンヘンで初上映が許される。そして、本作のノーカット版が西ドイツでテレビ放映されるまでには、制作後20年を待たなければならないことになる。 さらには、52年に西ドイツで映画『動物園の毒薬』を撮影中に、W.シュタウテは、西ドイツの連邦内務省から、DEFAでは今後は制作活動を行なわないと誓うように圧力を掛けられて、この映画の監督を降板させられると、今度は、DEFAの製作の下、再び東ドイツでの映画制作に関り、DEFAの児童映画カラー作品の第二弾となる『小さなムックの物語』を撮り終えて、これを53年に発表する。この作品は、世界的にもヒットして、成功を収める。 しかしながら、DEFAとの軋轢は、すでに48/49年頃よりあり、55年には、W.シュタウテは、DEFAとの仕事を最終的に打ち切ることになるが、彼の、この決断の決定的な要因は、高名な演劇作家ベルトルト・ブレヒト (Bertolt Brecht)との映画制作上での確執であった。 B.ブレヒトが書いた叙事的演劇『肝っ玉おっ母とその子どもたち』の映画化は、B.ブレヒト自身が望んだこともあり、すでに、47年からその話しが出ていた。色々な経緯を経て、51年にW.シュタウテもこの映画化に関わることになるが、原作者であるB.ブレヒトの発言力が大きく、中々映画化への具体化が進まなかった。実は、53年発表の映画『小さなムックの物語』の制作も、この間の間隙を縫う形で撮影が進められたものであった。54年には、新しい契約が結ばれて、今度は、DEFAの意向もあり、フランスのスター女優シモーヌ・シニョレ(軍隊に付いて歩く娼婦Yvette役)と、同じくフランスの性格俳優ベルナール・ブリエー(料理人役)を迎えて、シネマスコープ版のカラー歴史映画大作を制作しようということになったのである。しかし、自分の舞台芸術の美的センスを蹂躙されると感じたB.ブレヒトが抗議し、これは、当時の東ドイツの首脳部、文化大臣も巻き込んでの、係争問題と発展した。結局、関係者の折り合いが合わず、55年8月に撮影をし始めて、約20分程度のシーンを撮ったところで、この作品は撮影中止となった次第である。[3] それまでの経緯もあり、西ドイツに活動の場を移したW.シュタウテには中々自分の撮りたい映画制作に掛かるチャンスが恵まれなかった。このこともあり、58年には、同僚とも言える監督のハラルト・ブラウン
1945年以降の経歴
この作品『検事にバラを』を以って、W.シュタウテの、政治・社会批判的映画の、第二期における第一弾が撮られたことになる。これを受けて、60年には、終戦直前の脱走兵の問題を扱う『教会堂祭』が、64年には、ギリシャでのドイツ国防軍による村民虐殺を扱う『旦那連』が、その第二弾、第三弾として発表される。経済復興の「奇跡」を成し遂げ、今や、「先進国」の仲間入りをした西ドイツ社会は、今更戦時中の戦争犯罪を思い起こさせる、この作品には、拒絶反応を示す:
「政治風刺と、運命の悲劇との間を行き来しながら、この、俳優陣によって極めて良質に演じられた本作は、ドイツとギリシャの両国民の間に横たわる、未だに越えられていない過去の問題の解決への、極めて特筆すべき貢献であろう。しかし、この点にもまして興味深いのは、本作に対する当時の反応である。当時において、本作は、「古巣の汚辱」(ドイツ語版)(Nestbeschutzer:自分の古巣たる西ドイツ国家を、悪意を持って汚す行為)と貶められ、これを以って、W.シュタウテの、アンガジュマンを示す社会批評家としての歩みを終わらせることになったのである。」[4]
しかも、1962年のオーバーハウゼン・マニフェスト(Oberhausener Manifest)で、西ドイツの若手の映画作家達が担うニュー・ジェネレーションは、「パパの映画は死んだ!」[5]と宣言し、自らの「現代の映画」への要請が何であるかを定式化していた。それ故に、W.シュタウテは、60年代末には、時代遅れの監督と見做されるに至るのである。
そのような展開もあり、68年にW.シュタウテは、制作会社シネ・フォーラムCineforum有限会社を設立し、映画『秘め事』を制作するものの、不発に終わり、彼は、終生に亘る負債を負うこととなる。[6]
これ以降、負債返済のために、テレビ映画の制作で仕事をせざるを得なくなり、68年においても、「私は、テレビとは壊れた関係にある。あの小人の運命に、私が、ことさらの興味を持っているわけではない。」[7]と言っていたW.シュタウテは、幾多のテレビ映画を撮ることになる。