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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart
バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年)
モーツァルトの死後に想像で描かれた。
基本情報
出生名ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト
Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
別名神童
生誕1756年1月27日
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
ザルツブルク大司教領
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[注釈 1](独: Wolfgang Amadeus Mozart [?v?lf?a? ?ama?de??s ?mo?tsa?t] ( 音声ファイル)、1756年1月27日 - 1791年12月5日)は、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家[注釈 2]。
洗礼名はヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]。
ハイドンやベートーヴェンと同じく古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である[1][2][3]。 1756年1月27日、ザルツブルクで誕生する。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家であるオーストリア大公国領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。 父・レオポルト・モーツァルトは、元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、7番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。ほかの5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称ナンネル)だけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった[4]。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)である。 父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときに現存する最古の作品が作曲される (アンダンテ ハ長調 K.1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された[5]。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教・ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方で、モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはそのとき手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったとのちに回想している[6]。 1769年から1771年にかけて第1回目のイタリア旅行を行い、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[注釈 3]。イタリア旅行は3度に及ぶが、中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[7]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。 1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした称賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった[8]。
生涯
幼年期
巡業と音楽教育