この項目では、フランスの哲学者について説明しています。その他の用法については「ヴォルテール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ヴォルテール
Voltaireヴォルテール(24歳の時)ニコラス・ド・ラルジリエール作
別名フランソワ=マリー・アルエ(本名)
Francois-Marie Arouet
生誕 (1694-11-21) 1694年11月21日
フランス王国・パリ
死没 (1778-05-30) 1778年5月30日(83歳没)
フランス王国・パリ
(墓所はパンテオン)
時代18世紀の哲学
地域西洋哲学
学派理神論、啓蒙思想、古典的自由主義、百科全書派
研究分野哲学史、倫理学、自然哲学、歴史、歴史哲学、宗教、政治哲学
主な概念寛容、自由、政教分離原則への貢献、ライプニッツ的合理主義哲学への批判など
影響を受けた人物
プラトン、マルクス・トゥッリウス・キケロ、ジョン・ロック、アイザック・ニュートン、百科全書派など
影響を与えた人物
フランス革命、自由主義、ニコラ・テスラ、ヴィクトル・ユーゴー、フリードリヒ2世 (プロイセン王)、トマス・ペイン、アメリカ合衆国建国の父、マルキ・ド・サド、アレクサンドル・プーシキン、フリードリヒ・ニーチェ、カール・マルクス、ジャン=ポール・サルトル、アルフレッド・エイヤーなど
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ヴォルテール(Voltaire)こと、本名フランソワ=マリー・アルエ(Francois-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日[1])は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。また、ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなどとともに百科全書派の学者の一人として活躍した。ボルテールと表記されることもある[1]。
パリの公証人の子。姓は“アルーエ”とも表記される[2]。Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名をもじった等、諸説ある。 フランソワ・マリー・アルエ(以下、アナグラムのヴォルテールで記す)は、1694年11月21日にパリで生まれた。父のフランソワ・アルエは裕福なブルジョワであり、またさまざまな名士たちとも交友があった。なかでも文学者たちとの交遊は、ヴォルテールに強い影響を与えた。 1704年から1711年までの間、イエズス会のルイ=ル=グラン学院で最高の教育を受けた。彼は優秀な生徒で、イエズス会は『ジュヌヴィエーヴによせるルジュ神父のオードの模倣』を1710年に出版するほどだった。しかし、彼はイエズス会士や司法官ではなく、詩人になろうと決心した。 父親はヴォルテールがブルジョワとして堅実な人生を歩むことを望んでいたため親子は対立した。このため、1713年には父の友人であるシャトーヌフ侯爵が駐オランダ大使として赴任する際に秘書として雇われることとなったが、オランダに到着した途端に恋愛騒ぎを起こし、わずか三カ月でフランスに追い返された[3]。1714年には法律事務所で書記となったが長続きしなかった。アカデミー・フランセーズの詩の賞を受ける。[4] 1715年になると徐々にヴォルテールの名は知られるようになっていったが、1716年に摂政の恋愛についての詩を書いたために、シューリー・シュール・ロワールにあるシュリ公爵の城にしばらく引きこもった。 若い頃から詩編をたびたび出版し続けた。そして、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けたあげく、1717年5月、彼はバスティーユ牢獄に投獄され、11か月間を過ごした。22歳から23歳の頃である。そして、彼、フランソワ=マリー・アルエが「ヴォルテール」という筆名を用いたのはまさにこの時期であった。[5] 1718年11月18日、ヴォルテールがその生涯に大量に書き残す韻文悲劇の処女作、『エディップ(オイディプス)』がコメディー・フランセーズにて初公演された。この頃は、まだヴォルテールはバスティーユから釈放された直後であり、パリ在住の仮認可だけしか得られなかった時期である。しかし劇は大成功を収め、45回という異例の回数にわたって上演された。このことからヴォルテールは摂政より金メダルと年金を受け、ジャン・ラシーヌやピエール・コルネイユとも並ぶ大物作家になった。[6] 名門貴族のロアン=シャボーとのトラブルののち、1726年4月17日、再びバスティーユに投獄された[7]。この投獄はロアン家が後ろから手を回してヴォルテールの逮捕状を取ったものであり、以降、世論はヴォルテールを味方するようになり、大勢の面会者が彼の下を訪問した。 すぐにヴォルテールは釈放され、同年5月11日、彼は自らの意志でイギリスへ向かった。このことについては当局も快諾している。そして、これが彼にとっての最初のイギリス渡航であり、彼のその後の哲学に大きな影響を与えることとなった。これは、人間の理性を信頼し、自由を標榜していたヴォルテールにとって、イギリスの自由な風潮から当時のフランスの前時代的封建的性格を思い知り、同時にイギリスに感銘を受けたということである。 また、イギリスで大きな影響力を持っていたジョン・ロックやアイザック・ニュートンらの哲学を深く知り、イギリスの哲学研究に惹かれた。このことが『哲学書簡』の発表に繋がることになる。1728年秋にはロンドンからふたたびフランスへと戻り、以降二度とイギリスを訪れることはなかった。 1729年にはパリに再び戻った。1733年にはエミリー・デュ・シャトレと出会い、すぐに愛人関係となった。 有名な『哲学書簡』は、1733年にイギリスのロンドンにおいて英語で発表した。この時点ではまだあまり注目されていなかったようである。翌年、オランダのアムステルダムでその海賊版が大量に刷られ、フランスのパリにも大量に流れ込むことになる。 結果、この『哲学書簡』では自国よりもイギリスの諸制度の方がはるかに優れているという論調であったため、フランスの愛国者の怒りを買い、焚書の対象となり、1冊が見せしめに焼かれ、ヴォルテールには1734年にまた逮捕状が出された。この際、ヴォルテールはまずオランダに逃れ、その後愛人のエミリー・デュ・シャトレ(シャトレ夫人)を頼り、ロレーヌのシレーにあるデュ・シャトレ家の館に隠れた。
経歴
幼少期
青年期
英国滞在
シレーでの生活シャトレ夫人が訳出し死後出版された「自然哲学の数学的諸原理」仏語訳の扉絵。ニュートンの発する天界の閃きをシャトレ夫人が反射してヴォルテールに投げかけている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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