ヴェーラ・ザスーリチ
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ヴェーラ・ザスーリチ
Вера Ивановна Засулич
ヴェーラ・ザスーリチ
生年1849年8月8日
生地  ロシア帝国スモレンスク県ミハイロフカ村
没年 (1919-05-08) 1919年5月8日(69歳没)
没地  ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ペトログラード
思想共産主義マルクス主義
活動ナロードニキ運動
所属南のブンターリ、土地と自由、「黒い割替」派、労働解放団ロシア社会民主労働党メンシェヴィキ
裁判フョードル・トレポフ将軍銃撃事件で無罪
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ヴェーラ・イヴァノーヴナ・ザスーリチ(ザスーリッチとも;ロシア語: Вера Ивановна Засуличヴィェーラ・イヴァーナヴナ・ザスーリチュ;ラテン文字転写の例:Vera Ivanovna Zasulich, 1849年8月8日ユリウス暦7月27日)- 1919年5月8日)は、ロシア女性革命家
生い立ち

1849年8月8日(ユリウス暦7月27日)ロシア帝国西部のスモレンスク県ミハイロフカ村に生まれる。生家は小貴族で、3歳の時に父親が死去する。母親の計らいでビャコロヴォに住む裕福な親族(従兄弟の関係にあたるミクーリチ家)に姉二人とともに預けられた。1866年女学校を卒業し二人の姉とともにサンクトペテルブルクの寄宿女学校に入学する。ザスーリチは、姉の影響で革命思想に共鳴し、ナロードニキ運動に参加する。寄宿女学校卒業後、モスクワ大学に合格するが、大学にはいかずにモスクワ郊外の判事の事務所で助手として働く。様々な訴訟を扱う中、特に当時の農村の悲惨な状態に触れることになる。
ナロードニキ運動に参加

1868年再びペテルブルクに出て裁縫や製本の仕事の傍ら、夜間学校で工場労働者に読み書きを教えた。ザスーリチがセルゲイ・ネチャーエフと出会ったのはこの時期である。ネチャーエフの活動をザスーリチは助けるが、1869年3月ネチャーエフがスイス亡命した後、ザスーリチと姉はネチャーエフ事件に連座し逮捕、投獄された。

ネチャーエフ事件の裁判で証人として出廷した後、1871年3月釈放される。しかし数日後、再び拘束され、以後、警察の監視下、いくつかの地方で拘束される行政流刑処分となる。ザスーリチは、拘禁中に意識的な革命家に変貌したと考えられる。

1873年に釈放され、1875年9月キエフに移る。キエフでナロードニキ組織「南のブンターリ(反乱者)」に参加する。この団体は、バクーニン主義の影響の強いグループで、ここで終生の友人であるレフ・デイチに出会う。デイチは、このころのザスーリチについて、知的で博識であり、注目に値する女性であると記している。

しかし、ほかのナロードニキが農民との軋轢で運動が挫折したのと同様、ザスーリチも、農民に受け入れられず運動は行き詰まりを見せていた。
トレポフ狙撃事件

1876年、ペテルブルクに出てナロードニキ組織「土地と自由」に参加する。1877年7月、76年12月のデモに参加し逮捕された大学生で政治犯のアレクセイ・ボゴリューボフが、監獄を視察したペテルブルク特別市長官フョードル・トレポフ将軍に対して脱帽を拒否、報復として鞭刑とされたことに囚人が怒り暴動が発生したという新聞記事を読む。この事件は革命派、過激派のみならず、多くのインテリゲンツィアも憤激させた。ザスーリチもその一人であった。1878年1月24日、ザスーリチはコズローヴァの偽名を名乗り請願のためとトレポフ将軍に面会し、将軍を狙撃した。ザスーリチの放った弾丸のうち、二発目がトレポフの左脇腹に命中し負傷させた。ザスーリチはその場で逮捕され、裁判にかけられるが、事件は世界的に知られることとなり、普通法による陪審裁判所で取り扱われ無罪となった。無罪判決が下った瞬間、法廷内は歓喜の声が充満し、裁判所の外で判決を見守っていた群衆は、ザスーリチを歓呼をもって迎えた。


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