ヴェンド人
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ヴェンデン」はこの項目へ転送されています。ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の町については「ヴェンデン (ザウアーラント)」をご覧ください。
ヴェンド人の結婚式(1931年、ドイツ)

ヴェンド人(: Wends、: Wenden、: vendere、: vender)は、民族移動時代の後、ゲルマン人の居住地の近郊もしくはその領域内に住むスラヴ人を指すゲルマン語(後にドイツ語)の言葉。従ってこれは特定の部族ではなく、いろいろな民族や部族あるいは集団に対して用いられた言葉が次第に「いつ、どこに居るか」(あるいは「居たか」)によって使われるようになったものである。

現代「ヴェンド人」という用語は主として歴史的な文脈で用いられるが、カシューブ人: Kashubians)やソルブ人、あるいはテキサス・ヴェンドのようにソルブ語を話す家系の人々について言及する際に使われる場合もある。
「ヴェンド人」の歴史的変遷

ゲルマン人は当初これを古代ヴェネト人(英: Veneti)に対して使っていたが、民族移動時代の後は新たに東隣になったスラヴ人に転用したと考えられる。「en:Vistula Veneti#Relation between Veneti and Slavs」および「en:Relation between Veneti and Slavs」も参照

中世のスカンディナヴィア人にとって「ヴェンド人」はバルト海の南岸から来るスラヴ人のことであり、オボトリート族(英: Obotrites)やルギアラーン人、ポメラニア人(英: Pomeranians)などのポラーブ諸語を話すスラヴ人を言及する際に用いられた。

中世の神聖ローマ帝国北部に住んでいたか、あるいはそれ以前に住んでいた人々、特にサクソン人にとって「ヴェンド人」はオーデル川流域の西側に住むスラヴ人だった。しかしポラーブ系スラヴ諸部族が居住するようになると、その地域はゲルマニア・スラヴィカ(Germania Slavica)と呼ばれるようになり、「ヴェンド人」は北に居住した前述の部族や南に居住したソルブ人やミルツェン人(英: Milceni)などを言及するのに用いられるようになった。

南部に住むドイツ人は北部に住むドイツ人が用いた「ヴェンデ人」の代わりに「ヴィンデ人」を彼らと接触があったポラーブ人やバイエルン地方のスラヴ人、スロヴェニア人などを指すのに使った。ヴィンディッシュ辺境伯 (英: Windic march) やドイツ語でスロヴェンスカ・ビストリツァを指す「ヴィンディシュ・ファイストリッツ」はこうした歴史的な用例を証明している。

8世紀以降、ヴェンド人の住む土地はほとんどフランク人の王やその後継者たちの武力行使により王国に組み込まれた。12世紀にはヴェンド人の土地は神聖ローマ帝国の一部となった。また12世紀から14世紀にかけてピークを迎えた東方植民: Ostsiedlung)によりドイツ人がヴェンド人の土地に定住したが、それは「ヴェンド人」の定義の再編を意味した。この時にヴェンド人は帝国内でスラブ語を話す少数民族を指すようになった。その一方でポーランド人チェコ人など新しい境界の東に住むものはそう呼ばれなかった。スラヴ人の多くはドイツに同化するの過程でドイツ人と混血したり文化や言語を取り入れたりした。ドイツ人とあまり交わらず西スラヴ語群を使い続けた一部の地方のコミュニティだけが依然としてヴェンド人と呼ばれた。

ヴェンド人は現在のドイツ東部ラウジッツ地方のソルブ人とポーランド北部ポメラニア地方のカシューブ人だけになったが、彼らも今ではヴェンド人というよりも、むしろソルブ人、カシューブ人と呼ばれるのが適当である。
ヴェンド人の歴史9世紀のヨーロッパ地図。
アヴァール王国(黄色)によって南北に分断されている中央の水色の部分がスラーヴィア。
バルト海沿岸にヴェンド の文字が見られる。
初期の文献

2世紀の半ば頃クラウディオス・プトレマイオスが『ゲオグラフィア(地理学)』でバルト海沿岸に住む他の居住者と共にオーエネダイ(英: Ouenedai)について言及しており、昔の学者にはこれが中世のヴェンド人と同義であると主張する者もいた[1]。言語学者の中には、オーエネダイとその当時のスラヴ人語派が異なっていたはずであり、言語学的に異なっているのであるからこれをヴェンド人と同一視出来ないと主張する者がいる[2]

しかし現代の考古学的成果によると、この地方では先史時代より球状アンフォラ文化縄目文土器文化ウーニェチツェ文化トシュチニェツ文化ルサチア文化ポメラニア文化プシェヴォルスク文化、そしてスラヴ人の文化であると明白に確定している中世前期のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合のうち、この地方独特の地方文化であるプラハ文化(そのさらに一部のコルチャク文化)へと、その特徴でも時代でも断絶なく引き継がれており[3]、プトレマイオスの時代のオーエネダイはこのうちプシェヴォルスク文化に属する人々であったことから、この地方のスラヴ人(西スラヴ人)である中世ヴェンド人とは完全に同一の集団ではないものの、遺伝的・文化的には中世ヴェンド人の基層的な先祖、すなわちプロト・スラヴ人ないしプレ・プロト・スラヴ人であった可能性は高い。
興隆期(500年?1000年)

紀元1000年までの民族移動の間にスラヴ人は南スラヴ人東スラヴ人西スラヴ人に分裂してそれぞれ発達した。西スラヴ人の一部はエルベ川とオーデル川のに挟まれた地域に東から西へ、南から北へと移動してきた。そこには民族移動時代に移動しなかったゲルマン系の人々が地域に同化して残っていた。ゲルマン人はスラヴ人に対して彼らが来る以前にエルベ川の東岸に住む部族に対して使った言葉を、おそらくはかつてはウェネディ族(英: Venedi)を、そしてヴァンダル族をそう呼んだように「ヴェンド人」と呼んだ。

その巨大な文化集団ゆえに、学術上「ゲルマニカ・スラヴィカ」[注 1]と呼ばれるようになる地域へ到着する一方、ヴェンド人は森林地帯に互いの居住地が分断され、すぐに様々な小部族に分裂した。彼らは部族名を住んでいる地名から採ったが、ハーフェル川に由来するヘフェル人(英: en:Hevelli)やゲルマン民族のルギ族(英: en:Rugians)に由来するラーン人などゲルマン語から派生したものもあった。

部族によっては公領のような一群に統一されることで大きくなるものもあった。例えばオボトリート族はホルシュタイン地方メクレンブルク地方(独: Mecklenburg)西部の部族の同盟から発展したものであり、強力な君主に率いられ、ザクセンを襲撃したことで知られている。このオボトリート人の君主の家系はメクレンブルク家(別名オボトリート家)として現在も存在する。ヴェンド人で唯一オデール川の東に住むポメラニア人は[注 2]ヴァルタ川の北とオーデル川の河口周辺から来た部族で、彼らも君主に率いられていた。リュティツ人(英: Lutizians)はオボトリート族やポメラニア人と同盟関係にある部族だった。彼らは君主によって統一はされず独立を守っていたが自分たちの指導者をレトラ神殿の集会で決定していた。

サクソ・グラマティクスはブラーヴェルの戦い(英: Battle of Bravellir)でデーン側に付いて参戦したスラヴ人としてポメラニアのヴェンド人の名を上げている[5]

983年、キリスト教化及び植民によって管理が確立される以前のノルトマルク(独: Nordmark)やビルンガー辺境伯領(独: Billungermark)でヴェンドの諸部族が神聖ローマ帝国に対して大規模な反乱を起こした。反乱は成功しヴェンド人のゲルマン化はおよそ2世紀遅れることになった。
衰退期(1000年?1200年)詳細は「ヴェンド十字軍」を参照『Germaniae veteris typus』(ドイツ古地図)右上にアエストゥイ族(英語版)、フェンディ族(英語版)、ゴートネス族インガエウォネース族の名前が見られる。(ウィレム(英語版)、ヨハン・ブラウ(英語版)父子編、1645年)

勝利した後、ドイツ人、デンマーク人、ポーランド人からのヴェンド人に対する圧力が増した。ポーランド人は数回ポメラニアに侵攻してきた。デンマーク人は頻繁にバルト海沿岸を襲撃したが、場合によってはヴェンド人がデンマークを襲撃することもあった。神聖ローマ帝国と辺境伯は旧領地を取り戻そうとした。

1068年から1069年にかけて、ドイツは遠征によってヴェンド人の主要な異教の神殿の1つであるレスラ(: Rethra)を襲って破壊した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef