ヴェラ・リン
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ヴェラ・リン
ヴェラ・リン(2009年7月)
基本情報
出生名Vera Margaret Welch
生誕 (1917-03-20) 1917年3月20日
出身地 イングランド ロンドン・イーストハム
死没2020年6月18日(2020-06-18)(103歳)
ジャンルトラディショナル・ポップス
職業歌手
活動期間1924年 - 2020年
レーベルデッカHMV

デイム・ヴェラ・リン (Dame Vera Lynn, DBE, 本名:Vera Margaret Welch (ヴェラ・マーガレット・ウェルチ), 1917年3月20日[1] - 2020年6月18日[2]) は、第二次世界大戦期に称賛を受けたイギリス歌手女優目次

1 プロフィール

2 若年期

3 戦後

4 栄誉

5 慈善活動

6 近年

7 私生活

8 死

9 脚注

プロフィール

第二次世界大戦中、リンはイギリス軍が戦っていたエジプトインドビルマで慰問コンサートを開いており、「イギリス軍の恋人」として記憶されている。リンが歌った歌でもっとも知られている曲は『ウィィル・ミート・アゲイン(We'll Meet Again)』と『ザ・ホワイト・クリフズ・オブ・ドーバー(The White Cliffs of Dover)』である。

戦後もリンの人気は衰えを知らず、イギリスやアメリカ合衆国テレビラジオに出演。リンの戦後期の代表的ヒット曲として『アウフ ヴィーダーゼーエン・スイートハート(Auf Wiederseh'n Sweetheart)』と『マイ・ソン、マイ・ソン(My Son, My Son)』が知られている。

リンは第二次世界大戦を戦った退役軍人たちの敬愛の対象であり続けており、2000年には20世紀の精神を最も具現したイギリス人の一人として名前が挙がった[3]

2009年、92歳となったリンのベストアルバムがイギリスのアルバムヒットチャート1位になり、存命中最高齢のアーティストによる1位記録となった[4]。晩年も退役軍人や障害児、そして乳癌に冒された人々への慈善活動に多くの時間と体力を費やしている。

2017年、100歳の誕生日を記念して発売したニューアルバム『VERA LYNN 100』も、イギリスのアルバムヒットチャート1位になった。
若年期

ヴェラ・マーガレット・ウェルチ(Vera Margaret Welch)は、1917年3月20日にエセックス州イーストハム(現在のニューアム区の一部)で、1913年に結婚した[5] 配管工[6][7] バートラム・サミュエル・ウェルチ(Bertram Samuel Welch, 1883年-1955年)とドレスメーカーのアニー・マーティン(Annie Martin, 1889年-1975年)夫妻の娘として生まれた。 1919年、リンが2歳の時にジフテリアに感染し、生死の境をさまよった。彼女は隔離病棟に送られ、3ヶ月後に退院した。入院の結果、彼女はクリスマスを逃し、1920年3月にはクリスマスと誕生日の両方を祝った。母親は入院中の彼女をとても大切にしており、その後も長い間、友人を訪ねたり、街で遊んだりすることを許さなかった。リンは、母が兄のロジャーには自分ほど厳しくなかったと振り返っている。

7歳から公の場で演奏を始め、11歳の時に母方の祖母マーガレット・リンの旧姓を芸名として採用した[8]1935年、ジョー・ロス(英語版)のバンドとの初のラジオ放送があった。この時点で、ロスやチャーリー・クンツ(英語版)などのダンス・バンドからリリースされたレコードに出演していた[9]。“彼女は戦前にユダヤ人難民の子供たちを連れてくるためのショーを行った数少ないアーティストの一人である。彼女はアンブローズのバンドと共に歌い、彼らをドイツから脱出させるための資金調達のチャリティーショーに参加した。私は心の底から彼女に感謝している。”?-イギリスのコメディアン、デビッド・バーグラス(英語版)
リンが戦前にイギリスにユダヤ人難民を連れてくる事を助けた件について[10]


1936年、彼女の初のソロ・レコードはクラウンレーベルから 「Up the Wooden Hill to Bedfordshire 」として発売された[11]。 このレーベルは1938年デッカ・レコードに吸収された[12]。 彼女はロンドンのイースト・エンドにある海運管理会社の社長の事務助手として働く事で生活を支えていた[13]1937年、彼女は著名なバンドマスターであるバート・アンブローズ(英語版)のもとに移った[14]。 同年、リンは最初のヒット曲「The Little Boy That Santa Claus Forgot」と「Red Sails in the Sunset」を録音した[15] 戦時中のイギリスの軍需工場で歌うリン、1941年初頭

リンの戦時中の貢献は、ロンドン地下鉄の駅のホームを空襲の避難所として利用していた人々に歌った事から始まった(彼女はオースチン・7を運転して駅に向かっていた)[16]。 彼女はロス・パーカー(英語版)とヒューイ・チャールズ(英語版)の人気曲「We'll Meet Again(英語版)」を1939年に録音したことで最もよく知られている[17]まやかし戦争中、デイリー・エクスプレス紙はイギリス軍人に好きな音楽家のアンケートをとった結果、リンが1位になり、「イギリス軍の恋人」として知られるようになった[18]1940年7月、リンはコベントリーで本格的なソロ活動を開始した[15]

第二次世界大戦暗黒期の1941年、リンは自分のラジオ番組「心からあなたへ」(Sincerely Yours)を始め、海外に派遣されているイギリス軍にメッセージを送った[9]。 彼女と彼女の四重奏団は兵士たちから最もリクエストの多かった曲を演奏した。また、リンは病院を訪問して新人の母親にインタビューしたり、海外にいる夫に個人的なメッセージを送ったりした[19] 。 彼女の他の戦時中の大ヒット曲は「ザ・ホワイト・クリフス・オブ・ドーバー(英語版)」(The White Cliffs of Dover)で、作詞はナット・バートン、作曲はウォルター・ケント(英語版)である[20]

1943年には映画「We'll Meet Again(英語版)」と「リズム・セレナーデ(英語版)」に出演。後の俗説に反して、彼女はこの間に イングランドのバラ(英語版)を歌ったり録音しておらず、彼女のプロデューサーであるデビッド・グーチが彼女のアルバム 「More Hits of the Blitz 」のためにこの曲を選んだのは1966年のことで、彼女はこの曲に親しみを持つようになった。アルバム自体はノーマン・ニューウェル(英語版)がプロデュースした「Hits of the Blitz」の後追いであった。

戦時中、彼女はENSA(英語版)に参加し、エジプトインドビルマを回り[21]、軍隊のために野外コンサートを行った。1944年3月、彼女はベンガル州のシャムシェルナガル飛行場に行き、コヒマの戦い(英語版)を前にした軍隊を楽しませた。彼女のホストであり生涯の友人でもあるバーナード・ホールデン(英語版)大尉は「彼女の勇気と士気への貢献」を称えている[22]1985年日本占領下のビルマでイギリスのゲリラ部隊を慰問した功績により彼女はビルマの星(英語版)記章を受章した[23]


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