ヴェネツィア派
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ヴェネツィア派(ヴェネツィアは)は、ルネサンス時代、特に15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派。絵画、彫刻、建築など様々な分野でその特徴は見受けられるが、一般的には絵画の流派を指す。絵画においてはデッサンを重視したフィレンツェ派とは異なり、画面の色を使って構築し、流動的で詩的な雰囲気で人間の感覚に直接訴えかける効果を追求した[1][2]
背景ヤーコポ・デ・バルバリによる1500年のヴェネツィア(ヴェネツィア景観図)

中世期においてイタリアでは当時都市国家が多く形成され、お互いに競い合っていた。そのため、地方によって大きく異なる芸術の流派が形成された。フィレンツェを中心とした中部・北イタリアではイタリア・ルネサンス美術は主に展開し、ローマと同様盛期ルネサンスの舞台として繁栄を極めていた。一方、当時ヴェネツィアは東方貿易によって富を得ており、それをきっかけにトスカーナとは異なる新たな芸術の形が形成された。15世紀に入ってから内陸へ進出し、トスカーナ美術と合流した。初めは国際ゴシック美術が入り、後にフィレンツェ派の新様式がもたらされた。それに伴い、ヴェネツィアではフィレンツェの芸術に対する反論が生まれ、ティツィアーノを筆頭とした芸術理論が持ち上がったといわれる。ヴァザーリは『美術家列伝』第二版でヴェネツィア派は自発的に生まれたものでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響下で生まれたものであるとし、実際1500年初頭に短期間でレオナルドがヴェネツィアを訪問したことが明らかとなっている[3]。他方、ヴェネツィアの領土には当時パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、プレジア、ベルガモといった都市が含まれ、ヴェネツィア派とは異なる独自の伝統にのっとった絵画様式が形成された[4]。18世紀のヴェネツィアは造形文化、音楽、演劇の再生などの普及とグランド・ツアーの特権化されるなどの魅力を持つ一方で政治状況はより悪化していた。スペインハプスブルク王朝の脅威に晒されたことが要因に挙げられる。1718年にパッサロヴィッツの講和によってパドヴァヴィチェンツァヴェローナ、プレーシャ、ベルガモクレーマ、ポレージネ地方、トレヴィーゾの辺境地帯であるベッルーノとカドーレ、ダルマチアとその周辺諸島を領有した。モレアは失ったが大部分の領土は残り、1722年の全体人口は450万人に達していた。しかし経済状況はさらに悪化しており、アメリカ大陸の発見によって内陸部の農業から得られるものだけが収入となっていた。一方で公債も1740年には8000万ドゥカーティに達していたものの、その浪費は止まなかった。それらの現実への対処法を持たなかったヴェネツィア共和国は、芸術を振興し娯楽を提供することで、それらの問題から目を逸らし続けた。演劇や教会音楽の発達もこの頃起きたが、一方で貴族の負債も増額していった。それに対して異議を唱えようとした者たちは沈黙と断罪を余儀なくされた。この頃は建築は都市計画のデザインが完成されていたため、そこまで大規模なものは行われなかった。彫刻は力が入れられたものの、この時代に一番勢力的だったのは絵画である。特にこの時代は絵画の分野における専門化が進んだ。例として都市の神話、年代記や史実描写、風景画、奇想画、都市景観画、風俗画などが挙げられる[5]
ヴェネツィアの人々

ヴェネツィアは初めから移民の街であった。イタリア全土もしくはアドリア海域からきた人々が有力な一族を築き、美術のパトロンとして影響を及ぼした[6]。従ってヴェネツィア派の画家たちはヴェネツィア出身の人間とは限らず、当時発展していた芸術があったヴェネツィアに周辺諸国から集まったものと考えられている。しかし、ヴェネツィアは伝統的に、突出した個性を嫌う傾向があり、ヴェネツィアに同化しきれない個性を持つ画家はヴェネツィアを出ていくこととなった。例としてカルロ・クリヴェッリや、ロレンツォ・ロットが挙げられる[7]
概要
ベリーニ 父子の影響

ヴェネツィア派の中核となったのはベリーニ親子の工房である。 ヤーコポ・ベリーニ国際ゴシック様式 に属する画家であったが、 透視図法 の実験にも関心を寄せた。それは息子たちに技術を教えただけではなく、娘婿 マンテーニャから写実主義を取り入れて発展の基礎を築いた。息子 ジェンティーレ・ベリーニは後に ティントレットヴェロネーゼらに引き継がれる カンヴァスを繋ぎ合わせて油彩大画面に仕立て上げる壁画的な大画面形式の確立に貢献した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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