ヴェネツィア・ビエンナーレ
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ジャルディーニ(ビエンナーレ公園)のビエンナーレ看板海から見たジャルディーニ上空から見たアルセナーレ(旧国立造船所)

ヴェネツィア・ビエンナーレ(Biennale di Venezia, 英語: Venice Biennale / Venice Biennial)は、イタリアヴェネツィア1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会。イタリア政府が後援するNPOであるヴェネツィア・ビエンナーレ財団が主催し、二年に一度、奇数年に、6月頃から11月頃まで開催されている。ビエンナーレとはイタリア語で「二年に一度」を指す。

この展覧会は、万国博覧会近代オリンピックのようにが出展単位となっており、参加各国はヴェネツィア市内のメイン会場となる公園やその周囲にパビリオンを構えて国家代表アーティストの展示を行う。国同士が威信をかけて展示を行い賞レースをすることから、「美術のオリンピック」とも称される。

ビエンナーレには美術部門(Esposizione_internazionale_d'arte_di_Venezia)だけでなく、映画部門・建築部門・音楽部門・演劇部門・舞踊部門がある。毎年ヴェネツィアで開催されているヴェネツィア国際映画祭と国際演劇祭、美術と同じ会場で偶数年に開催されている国際建築展覧会・ヴェネツィア建築ビエンナーレ、フェニーチェ劇場で行われる国際音楽祭(ヴェネツィア国際現代音楽祭)、国際舞踊祭(コンテンポラリー・ダンス国際フェスティヴァル)もヴェネツィア・ビエンナーレの一部である。
開催形式2001年の展示風景2009年の展示風景

参加各国は事前にそれぞれの国内のキュレーター美術家の中から、コミッショナー(展示企画者)と代表アーティストを選出し、ヴェネツィアに設けられた自国パビリオンでコミッショナーの企画した意図や設定したテーマをもとに代表アーティストを紹介する。その中から毎回、優秀賞(金獅子賞)が選ばれている。

コミッショナーやアーティストの選抜方法は国ごとに異なる。例えばイギリス・パビリオンの展示は毎回ブリティッシュ・カウンシルが行い、アメリカは国務省がグッゲンハイム財団、米国情報局、Fund for Artists at International Festivals and Exhibitionsおよび外部非営利団体と協力して出展するが、展示プランの選定は全米芸術基金(NEA)が運営するパネルFederal Advisory Committee on International Exhibitions(学者、教授、芸術家により構成)が非公開の審査で1点を国務省に推薦し、国務省が最終承認するというプロセスをとっている。日本のパビリオンは外務省系の独立行政法人、国際交流基金(ジャパン・ファウンデーション)が運営し、コミッショナーと代表アーティストとを毎回選出している。

またビエンナーレ財団は、各回ごとに、ビエンナーレ全体の企画を行う強力な権限を持ったディレクターを置く。ディレクターはイタリアを中心に世界の美術評論家キュレーターから選出される。ディレクターは、様々な国からアーティストを招待して行う大規模なテーマ展も企画し、ビエンナーレ全体の方向を決定する。

ビエンナーレに協賛して様々な財団や美術館などが行う特別展もビエンナーレ会期中にヴェネツィア市内の各所で開催されており、ビエンナーレが開催される年の春から秋にかけては世界各国から美術愛好家や関係者がヴェネツィアを訪問する。
会場・パビリオン

ビエンナーレの主会場はヴェネツィア共和国時代の国立造船所・アルセナーレおよび、ヴェネツィア市街最大の公園・ジャルディーニ(正式名はカステッロ公園だが、「公園」を意味するジャルディーニと通称される)である。当初からの会場であるジャルディーニの園内には参加各国の政府が所有・管理する30の恒久パビリオンが建っている。恒久パビリオンを所有している国はアメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・南米諸国など1930年代の強国や冷戦時代の西側陣営の同盟国、その他国際社会での政治力でパビリオンを建てることのできた国である。

パビリオンを持っていない国はジャルディーニ最大のパビリオンである展示館(旧イタリア館)を間借りするか、もしくはジャルディーニの外の市街各所にあるヴィラ(邸宅)を確保して自国アーティストの展示を行う。2000年代以降はアルセナーレが新たな会場として整備された。ビエンナーレのディレクターが企画する展覧会にはアルセナーレの建物が使われており、イタリア館(2009年より)などいくつかの国のパビリオンもアルセナーレ内に新設されている。

各国の代表にならなかった世界の若手アーティストを取り上げる企画展「アペルト」(Aperto)は、スイスの気鋭キュレーターのハラルド・ゼーマンがディレクターに就任した1980年に開始され、後にビエンナーレの公式プログラムの一部となった。「アペルト」は多くのアーティストの国際舞台へのデビューとなったものの1995年には一旦廃止されたが、1999年のディレクターに再度ゼーマンが選ばれると復活した。以後「アペルト」は毎回アルセナーレにおいて開催されている。
日本パビリオン日本パビリオン

日本政府(農商務省)は第2回の1897年にイタリア政府の要請を受けて工芸作品などを出展しているが、その次の参加は第14回(1924年)まで飛んでいるように、政府や国民は一貫してビエンナーレには関心を示さず、展示スペースは毎回他国のパビリオンを間借りしていた。1930年代以降、日本政府はたびたびイタリア政府からパビリオン建設を打診されており、民間では募金を集めて日本館を建設する運動もあった。しかし建設に踏み切る間もなく世界は第二次大戦に突入した。

1952年、日本はビエンナーレにはじめて公式参加した[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1950年代前半、イタリア政府から日本外務省へ、ジャルディーニに空いていた最後のパビリオン用地に日本が1956年までにパビリオンを建設しない場合はパビリオンを欲している他国へ用地を割り当てるという通告がなされた。日本は予算不足を理由に建設を見送るところであったが、1955年ブリヂストンの会長だった石橋正二郎が外務省の要請に応じて資金を政府に寄付し、外務省予算と合わせて建設費が出せることになった[要出典]。吉阪隆正の設計による日本館が完成したのは1956年であった。
歴史
ビエンナーレの始まり会期中のジャルディーニ会場入口展示館(旧イタリア・パビリオン)

19世紀末、イタリア統一により独立を失い低迷していたヴェネツィア市は、芸術分野でもミラノなどに押されていた。1893年、ヴェネツィア市議会は、ウンベルト1世マルゲリータ王妃の成婚25周年を記念し、ヴェネツィアが人道及び文化の面で貢献する街になることを決議した。同時にその一環として「イタリア美術展」の開催も決めた。1894年にはジャルディーニで美術展の会場となる展示宮殿(Palazzo dell'Esposizione)の建設が進められた。1895年、ヴェネツィア市は国王夫妻臨席の元、ジャルディーニの展示宮殿で「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」(I Esposizione Internazionale d'Arte della Citta di Venezia )の開会式を挙行した。「第一回ヴェネツィア市国際芸術祭」は会期中に22万4千人の観客を集めた。以後、ヴェネツィア市は二年ごとに芸術祭を開催することを決め、万国博覧会をモデルに事業の拡大を図った。当初から「国際展」という在り方に重きがおかれ、各国のコミッショナーが選出した作家の作品を展覧する国別参加(国別展示)と、授賞制度という特徴を持ち、美術のオリンピックとも称されてきた[2]。当初は装飾芸術が主だったビエンナーレはその後、20世紀の美術運動を紹介する場となるとともに、国際政治の確執の舞台ともなってゆく。

20世紀初頭には展覧会の国際化が進んだ。1907年ベルギーがジャルディーニ内に自国専用パビリオンを建てると[3]、各国もこれに追随し、1914年までにハンガリードイツイギリスフランスロシアが自国パビリオンを建設した。1909年の回では、観客数が46万人と絶頂に達した。その翌年1910年に開催されたビエンナーレでは、グスタフ・クリムトピエール=オーギュスト・ルノワールの個展、およびギュスターヴ・クールベの回顧展が行われるなど、国際的に重要な芸術家が招待された。しかし同回、主催者はスペイン室からパブロ・ピカソの絵画を、余りに目新しすぎて観客にショックを与えるとして撤去し議論となった(ピカソはこの後、1948年までヴェネツィア・ビエンナーレに展示されなかった)。第一次世界大戦1916年1918年の回が中止された後、近代美術に欧米の注目が集まる中、ビエンナーレも近代美術や前衛芸術の紹介に焦点を当てるようになった。


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