ヴェスニン兄弟
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年8月)
1890年ごろに撮られた家族写真。左から、ヴィクトル・ヴェスニン、アレクサンドル・ヴェスニン(父),Lidia Vesnina (姉妹), レオニード・ヴェスニン、Yelizaveta Vesnina (母)、アレクサンドル・ヴェスニン

ヴェスニン兄弟(Vesnin brothers)は、ロシア建築家で、長男:レオニード・ヴェスニン(Leonid Aleksandrovic Vesnin、1880年-1933年)、次男:ヴィクトル・ヴェスニン(Viktor Aleksandrovic Vesnin、1882年-1950年)、三男:アレクサンドル・ヴェスニン(Alexander Vesnin、1883年-1959年)の、3兄弟をさす。

ロシア・アヴァンギャルドの代表的建築家で、3人の兄弟は年齢が近いことの他、それぞれがそれぞれの得意分野を発揮し、密な協力関係によっていくつかの優れた建築作品を残している。社会学方面と地域計画的なデザインアプローチを主とする現代建築家同盟「オサ」の創立者。

1920年代と1930年代初頭まで構成主義建築の支配的なソ連の建築学校において指導者として君臨。

なお、各兄弟の共同作業に対する個々の活動に関する正確な推定は、依然として論争と推測の問題がはらんでいる。それにもかかわらず、歴史家は1923年と1925年の間にヴェスニン兄弟によって早期構成主義においてアレクサンドルの主導的な役割を指摘。アレクサンドルとしても、舞台デザイナーそして抽象画家として建築外で最も顕著な経歴を持っていた。

兄弟の建築における最も初期の協働は1906年にさかのぼる。1910年から1916年の間に、モスクワに本拠を置く家族会社は、モスクワとニジニ・ノヴゴロドにいくつかの公的・私的建物を設計し建てるが、スタイルは新古典主義に向かい装飾的な傾向をみせていた。ロシア南北戦争の間、レオニードとウィクトルは産業プロジェクトと教育に専念し、アレクサンドルは劇場のステージデザイナーとして成功した。

1922年、3人の兄弟は前衛的なコンセプトを取り入れて再会し、建物や現代建設技術の機能を重視した現代建築のビジョンを開発。ヴェスニン兄弟は、1922年から1925年の間に建築設計競技や、アレクサンドルが議長を務めるOSAグループの活動と出版を通じ、建築職能のリーダーシップを獲得。戦後不況から回復した経済にのって、ドニエプル水力発電所やモスクワのリッハチェフパレスのような有名な建設プロジェクトで報われていた。

1933年レオニードの死は、独立した芸術組合とモダニストの建築に対する政府の取り締まりの台頭という時代性と一致していた。ウィクトルは、ソビエト建築家連合(1939-1949)からソビエトアカデミー初代会長になり、工業建築と連邦政府統治の管理において大きな成功を収めた。アレクサンドルは、スターリン主義建築の台頭に対応することに失望し、静かに公共の職から撤退した。
主な代表作

モスクワ・ニコスルコエ郊外住宅地開発(ヴェスニン兄弟、1908年)

クズネツォフアパート(B.M.ヴェリコフスキー、A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン、1910年)

モスクワ中央郵便局(ヴェスニン兄弟、1911年)

ジュンカー銀行ビル(ヴェスニン兄弟、1913年)

カトゥンキの教会(ヴェスニン兄弟、1913年)

シロトキン邸(
ニジニ・ノヴゴロド, 天井画はアレクサンドル、1913年-1916年)

キシネマ・ブルナエフ科学工場付属集落(1915年)

クリミア・コクテバル・セメント工場集落(1917年に部分完成)

サトゥルスカ工場近接労働者定住住宅地計画(V.A.ヴェスニン、1919年)

カールマルクスモニュメント(A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン,途中資材不足で中断 1920年-1926年)

アクショーノフ群集劇「闘争と勝利」構想デザイン補(A.A.ヴェスニン、1921年)

舞台『フェードル』(1921年-1922年)

ポドルスキー工場近接労働者定住住宅地計画(V.A.ヴェスニン、1922年)

新しいモスクワ計画(La nouvelle Moscou, A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン, 赤の広場における建築プロジェクト、1922年)

新しいモスクワ計画レーニン地区低密度ハウジング計画(L.A.ヴェスニン,モス・ソビエト建築部にて)

労働宮殿(人民宮殿)設計競技1等当選案(ホテル・モスクワ再開発, 1923年)

レニングラード・プラウダ本部社屋コンペティション案(A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン,1924年)

飛行機格納庫(A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン,1924年)

アルコス・ビル案(建築設計競技1等案だが実現せず、1924年)

イワノヴォーヴォンネセンスク都市造営(デザインチーフとしてL.A.ヴェスニン,1924年-1927年)

天然鉱物中央研究所(V.A.ヴェスニン、1925年)

イワノヴォーヴォンネセンスク・サンスーシの人民の家(V.A.ヴェスニン、マリノフスキーの設計を引き継ぐ、1925年)

イワノヴォーヴォンネセンスク織物工場クラブ(L.A.ヴェスニン,1925年)

モストルグ・デパート(ヴェスニン兄弟、1927年)

クラスナヤ・プレスニャ (1927年-1928年)

イワノヴォーヴォンネセンスクIvsel銀行 (V.A.ヴェスニン、1927年-1928年)

モスクワ映画俳優クラブハウス(1928年、A.A.ヴェスニン)

ドニェフロストロイの調理工場建物(V.ヴェスニン,N・コーリ,オルロフ, S.マスリフのデザイン、1928年)

スラハヌイ・労働者クラブ(アゼルバイジャン・アプセロン、ヴェスニン兄弟、1928年-1932年)

バイロフ・労働者クラブ(アゼルバイジャン・バグー、ヴェスニン兄弟、1928年-1932年)

モスクワ前政治犯協会会館・政治犯のためのクラブ (ヴェスニン兄弟、1929年-1930年)

ドニエプル・ドニプルストロイ水力ダム(建築設計競技当選、ヴェスニン兄弟チーム、1929年-1932年)

ウクライナ・ハリコフ大劇場案 (ヴェスニン兄弟、建築設計競技最優秀に選出されるも実現せず、1930年-1931年)

クズネック住宅地計画 (ヴェスニン兄弟のドム・コムーナ設計、1930年)

スターリングラード・ハウジングコミューン計画 (ヴェスニン兄弟のドム・コムーナ設計、1930年)

リハチョフ工場文化宮殿(ヴェスニン兄弟、1930年)

ジル工場リカチェフ文化宮殿(自動車工場,現プロレタリア地区リハツェフ・クラブ 1931年-1937年)

ステパン・ラージン・労働者クラブ(アゼルバイジャン・バグー、ヴェスニン兄弟、1932年)

コテルニチェスカヤ及びゴンチャルナヤ堤計画(ヴェスニン兄弟とモイセイ・ギンズブルグ、1934年)

モスクワ重工業省重工業プロジェクトコンペティション案(A.A.ヴェスニン、V.A.ヴェスニン,1934年)

概要

長男レオニードは芸術アカデミー卒業後、レオン・ベノワに師事。MVTU(モスクワ高等技術専門学校)、モスクワ建築大学(ロシア語版、英語版)にて教鞭を執る。M・パルヒン、L・ヴェリコブスキー、N・ポリャコープ、ローマン・クレインアレクサンドル・ブーロフらが大学時代に師事している。主に兄弟の総括と実務方面を専らとし、また都市計画方面の分野でも活躍。1930年以降は、社会主義都市計画ソツゴロドを受けてロシア諸都市の地域計画マスタープラン作成に兄弟らは参加していく。

レオニードは1933年10月、ソビエト宮殿コンペでの結果で構成主義が終焉を遂げる直後に死去。彼が住んでいたモスクワの旧市街(旧Denezhny Lane)は、1933年から1991年にかけて名を馳せる。

次男ウイクトルはサンクトペテルプルクの民間技術大字を卒業。ヴフテマス、MVTUで教鞭を執る。ヴフテマスでは1924年ごろ自身らのスタジオが開設。技術分野に明るく、産業建築家として数多くの産業建築を残した。1929年には「新都市建設の条件」を発表。このころから都市計画分野の仕事を多く手がけ、学校のスタジオでも新都市の計画の課題を多くとりあげていた。

ウイクトルはソビエト宮殿のコンペからスターリン主義建築が蔓延した後にはスターリンの観念における役割を保持してさらに迎合した唯一の構成主義建築家であった。さらに1932年から1938年まで、過去の独立した団体をすべて置き換えた国営組合であるソビエト建築家協会議長を務めた。同期間では、重工業省兵站の建築についてグリゴリー・オルジョニキーゼに彼が直接報告するようなソ連の工業化のためのチーフアーキテクトという国民経済において最高峰の一流建築家の後継と化す。

彼はアルバート・カーンにも協力、1942年にカーン死去した後、カーンの未亡人に哀悼の意を表明した唯一のソヴィエト人であった。ヴェスニンスタジオの卒業生であるAnatoly Fisenko(1902-1982、1925年のMVTUクラス)はソ連当局とカーンの会社の間にはいってカーンのモスクワ事務所を拠点にして地元学生を大勢訓練することを密かに任命された。Fisenkoが逮捕された1932年にカーンとの破局後、刑務所で半年を費やしたが、第二次世界大戦前にFisenkoによって監理されていたGosproyektstroy-1(後のMetallostroyproyekt)における実質的にすべてのソビエトの冶金プラント、ゴーリキーAuto Plant、ジグリ水力発電所およびその他の最優先産業団地はウイクトルはによって監修された。

軍事産業で高評価を受けたこうした仕事は自身をトップに立たせただけでなく、実際の建築設計や公共職業生活からの脱却をも意味していた。彼のデザインプロセスへの関与、ソビエトにおけるカーンとのパートナーシップの働き、アメリカのデザイン技術の「借用」手段は、公式なものであったにもかかわらず、当時西側への認知の限界からか一般には知られていないままである。

1939年から1949年まではソ連建築アカデミー初代総裁をつとめた。RIBAゴールドメダルを1945年、受賞。

三男のアレクサンドルはベテルプルク民間技術大学卒業。モスクワにあるいくつかの芸術工房でも学び、ウラジーミル・タトリンにも師事した。ウイクトルとともに1908年から2年間ほど、ヴェリコフスキーの事務所で助手をつとめている。独立後はヴフテマスでも教鞭を執る。当時の教え子にはイワン・レオニドフなど。インフク(InkhukまたはInhuk, 芸術文化研究所:ИНXУK (Инхук) = Институт Художественной Культуры)の会員であり現代建築家同盟議長もつとめた。芸術集団「オクチャープリ(十月)」、「レフ」の会員。劇場芸術・舞台美術も手掛け、1923年にモスクワで上演された演劇「木曜だった男」の舞台セットはつとに有名である。また、「5×5=25」展にも、ロドチェンコ、ステパーノヴァ、エクステルらとともに出展参加する。

スターリン主義建築台頭後は積極的な職業生活からは距離を置く、おそらく当時の公式スタイルに溶け込めない、あるいはそれらに望みを持っていなかった。

彼の最後の公式デザインの仕事は、1920年代初頭からザリャディーに鎮座した政府建物のように時代遅れが蔓延する1940年代から第二次世界大戦まで、シムケントに建築されるその場しのぎの新しい労働者の町の防衛工場のためで、1961年に初めて一般市民に公開されるこれらにベストを尽くした他、空き時間は中央アジアで主要となるであろう多くの建築案をキャンバスに描いていた。


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