『ヴェスタの火』(ドイツ語: Vestas Feuer)は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1803年にエマヌエル・シカネーダーの著したドイツ語のリブレットを基に作曲したオペラの断片。筋書きは、非現実的な計略によりヒロインが一時的にウェスタの処女(古代ローマのウェスタの炎の守護者)となる、というものである。ベートーヴェンはシカネーダーのリブレットの最初の場面に音楽を書いたところで、この仕事を放棄してしまう。その断片(約10分の音楽)が演奏されることはほとんどない。 エマヌエル・シカネーダー(1751年-1812年)はリブレット作者であるのみならず、俳優、歌手、劇作家、劇場支配人でもあった。彼は既に1791年にモーツァルトのオペラ『魔笛』のリブレットを書いたこと(さらに全体的な後援を行ったこと)により、その名声を揺るぎないものとしていた。このオペラは初演で大成功を収め、いまだ彼の率いる会社の重要な演目であった。ルイス・ロックウッドによると、ベートーヴェンは『魔笛』を「愛し(中略)熟知していた」という[1]。1801年にシカネーダーの一座は『魔笛』が初演されたアウフ・デア・ヴィーデン劇場を閉じ、彼が建てたさらに広く壮大なアン・デア・ウィーン劇場へと拠点を移した。この劇場はシカネーダーが好んだ、精巧な背景と舞台効果による劇場型スペクタクルによく適合していた。こけら落としを飾ったのはフランツ・タイバーが作曲したアレキサンダー大王を題材とするオペラである。シカネーダーは当初そのリブレットをベートーヴェンに提示していたが、断られてしまったのであった[2]。 ベートーヴェンとの共作の年となる1803年までに、51歳となっていたシカネーダーは既に自らのキャリアの衰えを自覚していたが(これは最終的に完全に崩壊することになる)、この時点では彼はまだウィーンの演劇界、音楽界の重要人物であり続けていた[3]。『ヴェスタの火』は彼が書いた最後のリブレットとなる[4]。 一方、ベートーヴェンにとって1803年は重要な年であった[5]。32歳の彼はそれまで過ごしたウィーンでの11年間で既に一流作曲家としての地位を確立していた。この頃の彼は作曲法と目標の大きな変化を開始しており、この変化は英雄的なものを音楽で描写することに重点を置き、今日我々がしばしば呼ぶところの彼の「中期」を導いていく。既に作品31のピアノソナタ(第16番、第17番、第18番)などの重要な新作を仕上げていた彼の机では、百花繚乱の様相を呈する「中期」を代表する傑作群、ピアノソナタ第21番(『ヴァルトシュタイン』)、交響曲第3番(『英雄』)が書き進められていた。 ベートーヴェンは1792年のウィーンへの到着後、1791年に他界したモーツァルトの足跡をなぞるような時を過ごしていたが、シカネーダーとの共同制作はそうした一連の出来事の最後期のものである[注 1]。 アウフ・デア・ヴィーデン劇場で過ごす年月の中で、シカネーダーは仕事場に居を構えるのが効果的であると気づいていた。すなわち劇場を内部に備えた同じ居住施設に暮らすという意味であり、彼と共に働く者も多くが劇場内で暮らしていた。シカネーダーは新しいアン・デア・ウィーン劇場でもこの習慣を確実に継続できるよう取り計らっており、彼も劇場会社の多数の従業員も4階建ての共同住宅に住んだ。 1803年のはじめ、シカネーダーは次なるベートーヴェンとの合作を企画した。自分の劇場のためにオペラを書いてくれないかと持ち掛けた彼は、奨励策の一環として上述の居住施設への無償入居を申し出たのである。ベートーヴェンはこれに同意して同住宅へ引っ越し、概ね1803年4月から1804年5月の間をそこで暮らした。ただし、習慣にしていた夏季の近隣郊外、バーデン・バイ・ウィーンとオーバーデープリング
背景
シカネーダーとベートーヴェンの共作1815年のアン・デア・ウィーン劇場。
シカネーダーがベートーヴェンに渡すリブレットは10月後半になるまで出来上がらなかったため、当初ベートーヴェンには共同制作に係る義務は何も課されていなかった。彼はとにかく他の作品を作曲するので大忙しであった[2]。ベートーヴェンが『ヴェスタの火』に着手したのは11月の終わりごろであり、1か月間は辛抱してこれに取り組んだ[3]。
筋書きと音楽構造古代ローマのウェスタの処女の彫刻。