ヴィンセンス_(戦闘スループ)
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ヴィンセンス
南極のディサポイントメント湾におけるヴィンセンス(1840年1月-2月頃)を描いた19世紀の絵
基本情報
建造所ブルックリン海軍工廠
運用者 アメリカ海軍
級名ボストン級戦闘スループ
艦歴
起工1825年
進水1826年4月27日
就役1826年8月27日
退役1865年8月28日、ボストン海軍工廠
最期1867年10月5日売却
除籍1867 (est.)
要目
トン数700トン(bmトン
長さ127 ft (39 m)
幅33 ft 9 in (10.29 m)
吃水16 ft 6 in (5.03 m)
推進帆走
速力18.5ノット[1]
乗員80
兵装18門
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ヴィンセンス (USS Vincennes)は1826年就役、1865年退役のアメリカ海軍の700トンのボストン級戦闘スループ。現役中は太平洋の警備、南極調査、南北戦争中のメキシコ湾封鎖、等に従事した。ヴィンセンスの名前は、独立戦争中のヴィンセンスの戦いに由来する。ヴィンセンスは地球を一周した最初の米国軍艦であった。
目次

1 ブルックリン海軍工廠での建造

2 世界一周航海、1826年–1830年

3 西インド諸島、1831年–1832年

4 グアムおよび2回目の地球一周、1833年–1836年

5 ウィルクス調査探検隊の支援、1838年–1842年

6 西インドおよびメキシコ、1842年–1844年

7 極東、1845年

8 日本、1846年

9 1849年–1852年

10 二度目の調査探検、1853年–1856年

11 アフリカ艦隊、1857年–1860年

12 南北戦争

13 戦争の終了と退役

14 関連項目

15 参考文献

16 外部リンク

ブルックリン海軍工廠での建造

初代ヴィンセンスは、1825年3月3日に下院で10隻の建造が承認されたボストン級スループの1隻である。ブルックリン海軍工廠で1825年に起工、1826年4月27日に進水、1826年8月27日就役した。初代艦長はウィンリアム・ボルトン(William Compton Bolton )中佐(Master Commandant)であった。
世界一周航海、1826年–1830年

1826年9月3日、ニューヨークを出港しケープ岬経由で太平洋に向かった。1929年にはハワイ諸島を訪れ、1830年にはマカオに寄港した。その後フィリピンインド洋喜望峰を経由して帰国した。当時の艦長であったチャールズ・スチュワート(Charles Samuel Stewart)は、この世界一周航海に関する本を出版している[2]。ヴィンセンスがニューヨークに戻ったのは1830年の6月8日であり、およそ4年をかけての世界一周であった。2日後にヴィンセンスは任務を解かれた。
西インド諸島、1831年–1832年

修理を完了したヴィンセンスは、1831年から1832年にかけて、西インド諸島メキシコ湾で任務に着いた。黄熱病との長い戦いの後、ヴィンセンスは任務を離れた。
グアムおよび2回目の地球一周、1833年–1836年

1833年には再び太平洋に向かう。ヴィンセンスはグアムを訪れた最初の米国軍艦となった。再び地球を一周し、1836年6月に米国東海岸に戻った。
ウィルクス調査探検隊の支援、1838年–1842年 チャールズ・ウィルクス

1836年に任務を離れた後、ヴィンセンスは軽甲板を増設するという改造を加えられ、南極に向かう米国調査隊(United States Exploring Expedition)の旗艦となった。チャールズ・ウィルクス大尉に率いられ、調査隊は1838年8月にハンプトン・ローズを出港、南アメリカ沿岸に沿って調査を続けながら南下し、1839年には短期間南極を調査した。1839年の8月および9月には南太平洋に入ったが、その際にヴィンセンスの地図作成者が作った地図は現在でも使用されている。

その年の残りを南米西岸と南太平洋の調査に費やし、1839年の暮れにシドニーに入港し、ここを南極探検の母港とした。1840年の1月中旬から2月中旬にかけて、南極大陸の沿岸を調査。ヴィンセンスが航海した沿岸部は、今日ウィルクスランドと呼ばれているが、その名は1841年に初めに地図に記載されたものである。

さらに、南太平洋の島々、ハワイコロンビア川ピュージェット湾カリフォルニアウェーク島フィリピン諸島南アフリカを調査し、1842年6月に3度目の地球一周を終え、ニューヨークに戻った。
西インドおよびメキシコ、1842年–1844年

ヴィンセンスは続いてフランクリン・ブキャナン中佐を艦長に迎え、本国艦隊(Home Squadron)に所属した。ブキャナンは後にアナポリス海軍兵学校最高責任者となる屈指の士官であった。1844年、ヴィンセンスは西インド諸島およびメキシコ沿岸を航行した。この間に特筆するような事件はなかったが、テキサス沿岸で座礁した英国のブリッグを2隻救出している。この行為に対し、英国政府から感謝状が送られた。また、ブキャナンはメキシコからテキサス共和国に対する新たな侵略行為を防止するよう命令されていた。幸いなことに、そのような事態は発生せず、ヴィンセンスは8月15日にハンプトンローズに戻った。
極東、1845年

1845年6月4日、ヴィンセンスはハイラム・ポールディング(Hiram Paulding)大佐を艦長と私、極東へ向かって出港した。僚艦は戦列艦コロンバスであり、この小艦体をジェームズ・ビドル代将が指揮した。ビドルは、国務長官ジョン・カルフーンから公使としてに滞在していたケイレブ・クッシングに対し、日本との外交折衝を開始する旨の指令書を持っていた。

艦隊はリオデジャネイロから喜望峰を経てマカオに向かった。ビドル代将は無事マカオに到着したが、クッシングはすでに帰国した後だった。また、かれの後任であるアレクサンダー・エバレット(Alexander H. Everett)は、日本への航海に耐えうる健康状態では無かった。


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