ヴィンス・ロンバルディ
Vince Lombardi
生年月日1913年6月11日
生誕地アメリカ、ニューヨーク州ブルックリン区
没年月日 (1970-09-03) 1970年9月3日(57歳没)
死没地ワシントンD.C.
ポジションヘッドコーチ、ゼネラルマネージャー
大学フォーダム大学
主な経歴
レギュラーシーズン: 96勝34敗6分
ポストシーズン: 9勝1敗
キャリアレコード: 105勝35敗6分
スーパーボウル優勝
1966 第1回スーパーボウル
1967 第2回スーパーボウル
チャンピオンシップ優勝
1961 NFLチャンピオンシップ
ヴィンセント・トマス・ロンバルディ(Vincent Thomas Lombardi、1913年6月11日 – 1970年9月3日)はアメリカンフットボールのコーチ。1959年から1967年の9シーズンに渡りNFL グリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチを、1969年シーズンにワシントン・レッドスキンズのヘッドコーチを務めた。ヘッドコーチとして通算で105勝35敗6分け、勝率.750(NFLの方針で引き分けは無視)という成績を収め、負け越したことはなかった。彼がパッカーズを率いたポストシーズンでの通算成績は9勝1敗で、その間に5度のリーグチャンピオンシップ優勝を成し遂げ、そして第1回および第2回スーパーボウルを連覇した。ロンバルディの人気は当時リチャード・ニクソンが1968年の大統領選挙においてロンバルディを副大統領候補にしようと思ったといわれたほど高かった[1]。 ヴィンス・ロンバルディは、ナポリ生まれで食肉業者の父ヘンリー・ロンバルディと理髪店の娘でブルックリン生まれの母マチルダ・イッツォとの間に生まれた。ヴィンスは南ブルックリンのシープスヘッドベイ地域で育ち8年間パブリックスクールに通った。 1928年、15歳の時、ロンバルディはカトリック教会神父になるためイマキュレットコンセプション・カセドラルカレッジに入学した。2年後、この進路に進むことを止め、サン・フランシス・プレパラトリースクールに転校した。そこで彼はアメリカンフットボールチームで活躍し、野球も行い、Omega Gamma Delta Fraternity(オメガ・ガンマ・デルタ友愛会)の創立会員になった。ロンバルディは彼の生涯を通して敬虔なカトリック教徒だった。
目次
1 生い立ち
2 コーチングキャリア
2.1 ハイスクール
2.2 ウェストポイント
2.3 NFLへ
2.4 グリーンベイ・パッカーズ
2.4.1 ロンバルディ・スウィープ
2.5 アイスボウル
2.6 ワシントン・レッドスキンズ
3 病気と死
4 人物
4.1 主な栄典
5 主な発言
6 参考文献
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
生い立ち
コーチングキャリア
ハイスクールにある聖セシリア・カトリックハイスクールのアシスタントコーチ職を引き受けた。チームのヘッドコーチはフォーダム大学時代の元チームメイトでQBだった“ハンディ”・アンディ・パラウだった。この時ロンバルディは26歳でラテン語、科学、および物理も教え、ハイスクールでの年収は1,800ドルに満たなかった。ロンバルディとパラウはハイスクールから道路をはさんだ向かいの下宿屋でルームシェアして住んだ。家賃は週額1.5ドルだった。
1940年、ロンバルディはフォーダム大学のチームメイト、ジム・ロウラーの従姉妹だったマリー・プラニッツと結婚した。1942年アンディ・パラウはフォーダム大学へ行き、ロンバルディは聖セシリアのヘッドコーチとなった。ロンバルディは8年間聖セシリアのコーチを務め(そのうち5年間はヘッドコーチ)、1947年にフォーダム大学のフットボールおよびバスケットボールの新入生チームのコーチに、翌1948年にはフォーダム大学代表チームのアシスタントコーチになった。 1948年シーズン、ロンバルディはウェストポイントにある陸軍士官学校のアシスタントコーチも引き受けるようになった。ここでの経験が彼の後のコーチングスタイルに大きな影響を及ぼすことになった。ロンバルディはヘッドコーチアール・ブライク ロンバルディのプロフットボールコーチとしてのキャリアは41歳になった1954年シーズンから始まった。彼はNFLニューヨーク・ジャイアンツで新任のヘッドコーチ、ジム・リー・ハウエル 1959年1月、ヴィンス・ロンバルディは45歳の時にグリーンベイ・パッカーズのヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーとして招聘された。グリーンベイ・パッカーズは1958年シーズン、1勝10敗1分けという成績だった。
ウェストポイント
NFLへ
グリーンベイ・パッカーズ