ヴィルヘルム5世_(ヘッセン=カッセル方伯)
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ヴィルヘルム5世
Wilhelm V.
ヘッセン=カッセル方伯

在位1627年3月17日 - 1637年9月21日

出生 (1602-02-14) 1602年2月14日
神聖ローマ帝国
ヘッセン=カッセル方伯領カッセル
死去 (1637-09-21) 1637年9月21日(35歳没)
東フリースラント、レーア
埋葬 神聖ローマ帝国
ヘッセン=カッセル方伯領カッセル、聖マルティン教会
配偶者アマーリエ・エリーザベト・フォン・ハーナウ=ミュンツェンベルク
子女一覧参照
家名ヘッセン=カッセル家
父親ヘッセン=カッセル方伯モーリッツ
母親アグネス・ツー・ゾルムス=ラウバッハ
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ヴィルヘルム5世(Wilhelm V., 1602年2月14日 - 1637年9月21日)は、ヘッセン=カッセル方伯(在位:1627年 - 1637年)。「不変伯(ドイツ語:der Bestandige)」と呼ばれる。モーリッツ(学者伯)とその最初の妃であったアグネス(1578年 - 1602年)の息子。カッセルで生まれた。
生涯

1604年ヘッセン=マールブルク方伯ルートヴィヒ4世は死去し、ルター派から改宗しないことを条件に領土をヘッセン=カッセルとヘッセン=ダルムシュタットで分割するように遺言した。しかし、父モーリッツはヘッセン=マールブルク全域を併合したうえヘッセン=マールブルクをルター派からカルヴァン派へ改宗させたため紛争となり、結果として1627年にモーリッツはヴィルヘルム5世に譲位させられ、ヘッセン=マールブルクの一部を割譲した。

三十年戦争でヴィルヘルム5世はプロテスタントスウェーデンと同盟を結び、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世とのプラハ条約の署名にも拒否した。結果、カトリック軍に敗れて亡命、1637年9月21日に亡命先のレーアで死去した。妃のアマーリエ・エリーザベト(1602年 - 1651年、ハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ・ルートヴィヒ2世の娘)との間に生まれていた長男ヴィルヘルム6世が後を嗣ぎ、アマーリエ・エリーザベトが摂政となった。
子女

妻との間に12人の子女をもうけたが、成人したのは4人だけである。

アグネス(1620年 - 1621年)

モーリッツ(1621年)

エリーザベト(1623年 - 1624年)

ヴィルヘルム(1625年 - 1626年)

エミーリエ(1626年 - 1693年) - トゥアール公アンリ・シャルルと結婚

シャルロッテ(1627年 - 1686年) - プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒと結婚

ヴィルヘルム6世(1629年 - 1663年) - ヘッセン=カッセル方伯

フィリップ(1630年 - 1638年)

アドルフ(1631年 - 1632年)

カール(1633年 - 1635年)

エリーザベト(1634年 - 1688年) - ヘルフォルト女子修道院長

ルイーゼ(1636年 - 1638年)

先代
モーリッツ(学者伯)ヘッセン=カッセル方伯
1627年 - 1637年次代
ヴィルヘルム6世(正義伯)

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