ヴィルヘルム・ヴィンデルバント
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ヴィルヘルム・ヴィンデルバント" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年10月)

ヴィルヘルム・ヴィンデルバント
Wilhelm Windelband
生誕 (1848-05-11) 1848年5月11日
プロイセン王国 ポツダム
死没 (1915-10-22) 1915年10月22日(67歳没)
ドイツ帝国
バーデン大公国 ハイデルベルク
出身校イェーナ大学
ベルリン大学
ゲッティンゲン大学
学派新カント派
研究機関チューリッヒ大学
フライブルク大学
ストラスブール大学
ハイデルベルク大学
研究分野哲学
影響を与えた人物

マックス・ヴェーバー
エルンスト・トレルチ
アルベルト・シュヴァイツァー

テンプレートを表示

ヴィルヘルム・ヴィンデルバント(Wilhelm Windelband、1848年5月11日 - 1915年10月22日)は、ドイツ哲学者ハイデルベルク大学教授で、新カント派の代表。
生涯[ソースを編集]ヴィンデルバントの墓

ポツダムプロイセン王国の官吏の息子として生まれ、イェーナ大学ベルリン大学、そしてゲッティンゲン大学に学んだ。当初は医学と自然科学を志したが、その後精神科学(今日でいう人文科学)と哲学を学んだ。1870年、ゲッティンゲン大学で学位を取得。志願して普仏戦争に参加した。1873年ライプツィヒ大学にて大学教授の資格を取得し、1873年夏学期から1876年夏学期までライブツィヒ大学で教鞭をとった。1876年、チューリッヒ大学から正教授としての招聘を受け赴任。1877年にはフライブルク大学に、1882年にはシュトラスブルク大学に移り、そこで長期に渡り教職を務めた。1903年クーノ・フィッシャーの後継者としてハイデルベルク大学に移り、以来、ベルリン学士院の遠隔地会員となった。ハイデルベルクにて没した。

ヴィンデルバントの墓所はハイデルベルクのベルクフリートホーフ (Bergfriedhof)、森へと続く通路のすぐ側の区画10にあり、簡素な四角の大理石の表にヴィンデルバント本人および妻マルタ、娘エリー・シュトゥッツ・ヴィンデルバントの生没年が刻まれている[1]
業績[ソースを編集]

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ヴィルヘルム・ヴィンデルバント" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年10月)

哲学史家のフィッシャーに師事したヴィンデルバントはまず哲学の歴史家として、さらにフィッシャーの後継者として、加えて当代の重要な哲学の体系家、その中には彼の師ヘルマン・ロッツェを含めた人々のひとりとして時代の舞台に登場した。ロッツェは、存在するものの領域、(カントに習うなら)"quaestio facti" を事実的認識の条件によって媒介し、妥当するものの領域、quaestio iuris をその認識の活動的条件によって媒介させるとし、quaestio iuris は、"quaestio facti" に依存しているとした。ヴィンデルバントは、この関係を逆転させ、予め妥当するとされる判断から生まれてきたものは、事実上の(生きた)真理として妥当しているのだとした。

ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学(精神科学ともいう)の間の線引き問題にも努力を傾注した。自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとる。

ヴィンデルバントは、加えて哲学史家としても卓越している。彼の『哲学史教本』(Lehrbuch der Geschichte der Philosophie, 1892年。『哲学史綱要』『一般哲学史』あるいは単に『哲学史』とも)は、哲学史を各時代ごとのテーマによる論争史として執筆したものである。数多くの版を重ね、哲学的な訓練、修行を必要とする次代を担う哲学の徒によって長く読み継がれてきた。各時代は、哲学者とその教説の羅列ではなく、時代の哲学的な論争テーマを取り上げていく問題史の体裁を採用している。20世紀の部分は、ハインツ・ハイムゼートが書き足した。その他の代表作に、『哲学概論』、論文集『プレルーディエン』(『序曲』)、『近世哲学史』がある。

弟子にハインリヒ・リッケルトがいる。また日本の京都学派の代表のひとりである朝永三十郎は、ドイツ留学の機会を与えられ、ルドルフ・オイケンの元を訪ねた。だがオイケンの俗物ぶりに辟易し、計画を捨ててヴィンデルバントの門を叩き、彼に師事した。
著作[ソースを編集]

Die Lehren vom Zufall. Berlin 1870. 80 S. Diss. Univ. Gottingen 1870.

Uber die Gewissheit der Erkenntniss. Eine psychologisch-erkenntnisstheoretische Studie. Berlin 1873. IV, 96 S. Habil. Univ. Leipzig 1873.

Die Geschichte der neueren Philosophie in ihrem Zusammenhange mit der allgemeinen Cultur und den besonderen Wissenschaften dargestellt. 2 Bde. Leipzig 1878?1880. Bd. 1: Von der Renaissance bis Kant. 1878. VIII, 580 S. Bd. 2: Die Bluthezeit der deutschen Philosophie. Von Kant bis Hegel und Herbart. 1880. VI, 398 S.豐川昇訳『西洋近世哲學史』創元社、1944?1952年

Praludien. Aufsatze und Reden zur Einleitung in die Philosophie. Freiburg Breisgau 1884. VI, 326 S.河東涓、篠田英雄訳『プレルーディエン(序曲)』岩波書店、1926?1927年松原寛訳『哲學の根本問題』同文館、1926年陶山務訳『プレルウディエン(哲学序曲)』春秋社、1935年篠田英雄訳『永遠の相下に 他3篇:『プレルーディエン』より』岩波書店、1935年河東涓訳『哲学とは何か イマヌエル・カント :『プレルーディエン』より』岩波書店、1930年篠田英雄訳『歴史と自然科學・道徳の原理に就て・聖:『プレルーディエン』より』岩波書店、1929年出隆訳『哲學とは何ぞや : 哲學の概念及び歴史に就いて』大村書店、1920年

Geschichte der alten Philosophie. Handbuch der classischen Alterthums-Wissenschaft in systematischer Darstellung. Mit besonderer Rucksicht auf Geschichte und Methodik der einzelnen Disziplinen. Hrsg. v. Iwan Muller. Abt. 5. Bd. 1. Tl. 1. Nordlingen 1888. VIII, 338 S.

Geschichte der Philosophie. Freiburg Breisgau 1892. 516 S.桑木嚴翼訳『哲學史要』早稲田大學出版部、1902年

Platon. Frommanns Klassiker der Philosophie. Bd. 9. Strasburg 1900. 190 S.出隆、田中美知太郎訳『プラトン』大村書店、1924年


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:27 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef