ヴィルヘルム・モーンケ
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ヴィルヘルム・モーンケ
Wilhelm Mohnke
生誕1911年3月15日
ドイツ帝国
自由ハンザ都市リューベック
死没2001年8月6日(2001-08-06)(90歳)
ドイツ
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州 ダンプ(ドイツ語版)
所属組織 武装親衛隊
軍歴1931年 - 1945年
最終階級親衛隊少将、武装親衛隊少将
除隊後自動車販売業
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ヴィルヘルム・モーンケ(Wilhelm Mohnke、1911年3月15日 - 2001年8月6日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中、武装親衛隊の将校として第1SS装甲師団(LSSAH)などの指揮を執った。最終階級はSS少将目次

1 生い立ち

2 第二次世界大戦

3 ベルリン攻防戦

4 戦後

5 栄典

6 登場作品

7 脚注

8 参考文献

生い立ち

リューベック生まれ。1931年9月、国家社会主義ドイツ労働者党へ入党し (党員番号649,682)、親衛隊に入隊 (隊員番号15,541)。1933年3月17日、ヨーゼフ・ディートリヒが編成した『SS第1連隊 (1. SS-Standarte)』(通称ユリウス・シュレック連隊)からなる『ベルリンSS要人警護隊 (SS-Stabswache Berlin)』の117名の内の1人に選ばれ、モーンケはSS少尉となる。同部隊は、1934年4月13日に最終的にライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LSSAH)として再編されることとなる。
第二次世界大戦

1939年9月、モーンケはポーランド侵攻で LSSAH 連隊の第5中隊長として従軍し、第二級鉄十字章と第一級鉄十字章を受章した。翌1940年の西方電撃戦では、同連隊の第2大隊長となるが、5月にウォルムハウトで指揮下の部隊がイギリス軍捕虜80名を殺戮する。1941年バルカン戦線 (第二次世界大戦)に従軍し、4月6日、ユーゴスラヴィア侵攻の際に空襲を受け脚に重傷を負う。

1943年、SS中佐へ昇進し、訓練予備大隊を経て第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲントの第26装甲擲弾兵連隊長となる。翌1944年6月には、同連隊を率いノルマンディーに上陸した連合軍を迎え撃ち騎士鉄十字章を受章するが、フォントネールペヌルでカナダ兵捕虜35名を指揮下部隊が殺害する。8月20日、第1SS装甲師団長となるが、12月16日からのアルデンヌ攻勢で指揮下部隊がマルメディ虐殺事件を起こす。その後、同戦役中にSS少将へ昇進するも1945年2月に空襲で頭部へ負傷し、師団長職を退いてベルリンの総統官邸付となる。
ベルリン攻防戦

4月20日、ソ連軍がベルリン郊外に到達して総統官邸を含む市内へ向け砲撃を開始、ベルリンの戦いが始まった。4月22日アドルフ・ヒトラーより総統官邸を含むベルリン官庁地区の防衛司令官に任命され、9個大隊(兵士2,000人)からなるモーンケ戦闘団を編成して総統地下壕に司令部をおいた。モーンケ戦闘団はドイツ第三帝国の中枢部にあったため、5月2日に降伏するまでソ連軍の激しい攻撃に晒された。ソ連軍にとって官庁街及び国会議事堂はナチス・ドイツの象徴であり、軍事的、政治的にも重要な攻略対象であった。更にモスクワでのメーデーパレード前に占領するため猛烈な攻勢をかけたのである。

4月27日、ヒトラーの妻エヴァ・ブラウンの義弟でハインリヒ・ヒムラーの側近であるヘルマン・フェーゲライン総統地下壕から逃亡、翌28日にはヒムラーが独断で連合国と和平交渉を画策していたことが発覚した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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