ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
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この項目では、指揮者・作曲家のヴィルヘルム・フルトヴェングラーについて説明しています。同人物の祖父にあたる同名の古典文献学者については「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (学者)」をご覧ください。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 
Wilhelm Furtwangler 
エーリッヒ・ザロモンによる撮影。1931年以前のベルリン

基本情報
生誕1886年1月25日
出身地 ドイツ帝国ベルリン
死没 (1954-11-30) 1954年11月30日(68歳没)
西ドイツバーデン=バーデン
職業指揮者作曲家ピアニスト
活動期間1906年 - 1954年
レーベルEMI DG
マックス・フォン・シリングス
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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler, ドイツ語: [?v?lh?lm ?f???tv??l?], 1886年1月25日 ベルリン - 1954年11月30日 バーデン=バーデン)は、ドイツ指揮者作曲家。伴奏ピアニストとしての演奏も行った。
概要ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を1922年から1945年まで、終身指揮者を1947年から1954年まで務め、20世紀前半を代表する指揮者のひとりとされている。ベートーヴェンブラームスワーグナー等のドイツ音楽の本流を得意とした。一般には後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承した演奏とされ[1]、作曲家としても後期ドイツ・ロマン派のスタイルを継承したことから、ライバルのトスカニーニと対極に位置づけられることもあるが、「堅固な構築性をそなえた演奏を『ロマン主義的演奏』というだけで片付けてしまうのは軽率」とする見解もあり[2]、またフルトヴェングラー自身は「後期ロマン主義者」と看做されることを極度に嫌い、「私はロマン主義者でも古典主義者でもない」と語ったともいわれる[3]

音楽評論家の吉田秀和はフルトヴェングラーについて、「濃厚な官能性と、高い精神性と、その両方が一つに溶け合った魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだ」[4]「(ベートーヴェンが)これらの音楽に封じ込めていた観念と情念が生き返ってくるのがきこえる」[5]と評している。

現在でもCDが続々と発売され、放送録音、海賊録音の発掘も多く、真偽論争となったレコードも少なくない。

妹メーリットは哲学者マックス・シェーラーの妻であり、甥ベルンハルトと妻エリーザベト・フルトヴェングラー(ドイツ語版)の連れ子カトリーンの間の娘のマリア・フルトヴェングラー(ドイツ語版)は女優で医師であった。

音が出る前から指揮棒の先が細かく震え始め、アインザッツが非常にわかりにくいその独特の指揮法[6]から、日本ではフルトヴェングラーをもじって「振ると面食らう」などと評され、「フルヴェン」の愛称で親しまれている。
略年譜.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2019年6月)
AEG工場での歓喜力行団コンサートを指揮するフルトヴェングラー(1942年)

1886年 ベルリンにて誕生。正式な洗礼名はグスタフ・ハインリヒ・エルンスト・マルティン・ヴィルヘルム(Gustav Heinrich Ernst Martin Wilhelm)。父は考古学者アドルフ

1894年 父アドルフがミュンヘン大学の教授に任命され、ミュンヘンに転居。

1898年 高校を退学し、以後、ルートヴィヒ・クルツィウス、ヴァルター・リーツラーを家庭教師として勉強を続ける。

1901年 マックス・フォン・シリングスから作曲を学び始める。

1906年 カイム管弦楽団(現在のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団)を指揮しデビュー。デビュー・コンサートのプログラムは、ベートーヴェン「献堂式序曲」、自作のアダージョ、ブルックナー交響曲第九番[7]。同年チューリヒ歌劇場の第三指揮者となる。

1909年 シュトラスブルク歌劇場の第三指揮者となり、ハンス・プフィッツナーと交わる。

1911年 リューベックの音楽監督となる。リューベック在任中に、ハンブルクで活動していたアルトゥール・ニキシュと交わる。

1915年 マンハイムの音楽監督となる。

1920年 音楽学者ハインリヒ・シェンカーと親しく交わる。

1922年 同年死去したアルトゥール・ニキシュの後任として、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。

1927年 フェリックス・ワインガルトナーの後継としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。

1931年 バイロイト祝祭劇場にはじめて出演し、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を指揮。

1933年 ベルリン国立歌劇場ワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際、首相ヒトラーと握手している写真を撮影される。


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