東ドイツの政治家ヴィルヘルム・ピークWilhelm Pieck
ヴィルヘルム・ピーク(1952年)
生年月日 (1876-01-03) 1876年1月3日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国
ブランデンブルク州
ヴィルヘルム・ピーク
Wilhelm Pieck
所属組織 ドイツ帝国陸軍
軍歴1915年 ? 1918年
除隊後共産主義者、政治家
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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ラインホルト・ピーク(ドイツ語: Friedrich Wilhelm Reinhold Pieck, 1876年1月3日 - 1960年9月7日)は、ドイツの共産主義の政治家。東ドイツの初代大統領。彼以後は国家評議会議長が元首となり、大統領制が廃止されたので、最初で最後の大統領である。 ピークは1890年代からブレーメンのドイツ社会民主党 (SPD)の党員として活動し、1917年にドイツ独立社会民主党(USPD)に移籍、1919年にはドイツ共産党(KPD)の共同創設者となり、党幹部となった。1931年から1943年まで、コミンテルン執行委員会(ECCI)の議長団の一員であった。1933年からパリに滞在し、1935年から1945年までは主にモスクワに滞在した。彼が中心的な役割を果たしたSPDとKPDのドイツ社会主義統一党(SED)への強制統合により、1946年に元SPDのオットー・グローテヴォールと並んでSEDの共同議長となり、1949年のドイツ民主共和国建国後、初代にして最後の共和国大統領の地位にあった。 息子のアルトゥール・ピーク ピークは1876年、ドイツ東部ナイセ川沿いの街、グーベン
概要
経歴
生い立ち
政治活動社民党書記時代のピーク (1906年)
大工として、ピークは木工労働者連盟に1894年に参加し、そこから1895年にドイツ社会民主党(SPD)に入党した。彼は党内で昇進し、1899年には党都市部議長(委員長)となり、1906年には党の常勤の書記となった。1907年から翌年にかけてはベルリンにあった党の中央学校で学び、ローザ・ルクセンブルクの影響を受けている。1914年、彼はベルリンのシュテーグリッツの3部屋のアパートに引っ越した。この頃彼は本がたくさん並んだ自分の書斎も持っていた。1915年5月、彼は帝国議会前の大規模な女性デモで逮捕され、10月まで「保護拘束」されていた。1916年、ブレーメンの党書記としてに党学校でアントン・パンネクークに社会主義理論を教え続けるよう求めていた[1]。第一次世界大戦が勃発するとピークは党内左派の一員であったため、平和主義に賛同して戦争に反対の立場をとった。彼はドイツ帝国陸軍への徴兵には応じたが反戦的な態度から憲兵に逮捕され営倉に入れられた。脱走後ピークはしばらくベルリンに潜伏してスパルタクス団に入り、のちアムステルダムに逃れた。
1918年ベルリンに戻ると政治活動に戻った。彼はプロイセン州議会に加わる一方、ドイツ共産党(KPD)の結党に参加しその政治局員となった。翌年1月のスパルタクス団蜂起では虐殺されたローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらと共に政府側の義勇軍に捕えられたが息子のアルトゥールやロッテ・プレフカらの助けで脱出することができた。