ヴィルヘルム・ディルタイ
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ヴィルヘルム・ディルタイ
Wilhelm Dilthey
ヴィルヘルム・ディルタイ(1910年)
生誕 (1833-11-19) 1833年11月19日
ナッサウ公国モースバッハ
死没 (1911-10-01) 1911年10月1日(77歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国、ザイス・アム・シュレルン
出身校ベルリン大学
両親父:マクシミリアン・ディルタイ
母:ラウラ・ホイシュケル
研究機関バーゼル大学、キール大学、
ブレスラウ大学ベルリン大学
研究分野哲学神学
影響を与えた人物

ゲオルク・ミッシュ、ベルンハルト・グレトゥイゼン、ヘルマン・ノール、アルトゥール・シュタイン、テオドール・リットエドゥアルト・シュプランガー、エーリヒ・ロータッカー、ゲオルク・ミッシュヘルマン・ノールエドゥアルト・シュプランガーヴィルヘルム・フリットナーマルティン・ハイデッガーハンス・ゲオルグ・ガダマーマックス・ホルクハイマーユルゲン・ハーバーマス、エミーリオ・ベッティ

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ヴィルヘルム・クリスティアン・ルートヴィヒ・ディルタイ(ドイツ語: Wilhelm Christian Ludwig Dilthey [?d?lta?], 1833年11月19日 - 1911年10月1日)は、ドイツ哲学者心理学者思想史家
生涯

ライン河畔、当時はナッサウ公国に属したビーブリッヒの北部、モースバッハ(現在、ヴィースバーデン市の一部)に生まれる。父マクシミリアンはナッサウ公国宮廷牧師にして、モースバッハ・ビーブリッヒの教会参事官。母ラウラは、作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの最初の先生であったことでも知られる、ナッサウ公国宮廷楽長ヨハン・ペーター・ホイシュケル(英語版)を父にもつ。

ヴィースバーデンのギムナジウムを修了後は法学専攻を志したが、父の意向を尊重して神学研究を選択、ハイデルベルク大学に入学して、私講師クーノ・フィッシャーに師事した。ところが、同大学の保守反動化―ゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィーヌス(英語版)やフィッシャーの罷免、辞任がそのひとつの結果である―に嫌気がさしたこともあり、ベルリン大学に転学、哲学や歴史学や神学を学び、ランケドロイゼン、フリードリヒ・トレンデレンブルク(英語版)などの講義を聴講する。神学の国家試験に合格して大学を卒業。

その後、ベルリンのヨアヒムスタール・ギムナジウムの教師、文芸評論や書評の執筆者(『月刊ヴェスターマン画報』や『ベルリン年鑑』をはじめとする雑誌の数々に、膨大な数を寄稿)などを経て、1864年にベルリン大学私講師。1867年にはバーゼル大学員外教授に就任、ブルクハルトの知遇を得た。こののち、キール大学ブレスラウ大学教授を経て(ちなみに、パウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵との交友が始まったのはブレスラウ時代であり、その交情はヨルクの没年まで続いた)、1882年に、急逝したヘルマン・ロッツェの後を襲ってベルリン大学教授に就任した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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