ヴィルヘルム・カイテル
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ヴィルヘルム・カイテル
Wilhelm Keitel
カイテルの肖像写真 (1942年)
渾名ラカイテル(LaKeitel)
生誕1882年9月22日
 ドイツ帝国
ブラウンシュヴァイク公国
ヘルムシュローデ
死没1946年10月16日
連合国軍占領下のドイツ
アメリカ占領地域
ニュルンベルク
所属組織

 ドイツ帝国陸軍


プロイセン王国陸軍
ヴァイマル共和国軍陸軍
ドイツ陸軍
軍歴1901年 - 1945年
最終階級 陸軍元帥(Generalfeldmarschall)
除隊後戦争犯罪人
ニュルンベルク裁判
被告人
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ヴィルヘルム・カイテルWilhelm Keitel
国防閣僚会議員
内閣ヒトラー内閣
在任期間1939年8月30日 - 1945年4月30日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国
内閣枢密院顧問官
内閣ヒトラー内閣
在任期間1939年2月4日 - 1945年4月30日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国防軍
国防軍最高司令部総長
内閣ヒトラー内閣
在任期間1938年2月4日 - 1945年5月13日
総統アドルフ・ヒトラー
ドイツ国
第2代国防省軍務局長
内閣ヒトラー内閣
在任期間1935年10月1日 - 1938年2月4日
総統アドルフ・ヒトラー
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ヴィルヘルム・ボーデヴィン・ヨハン・グスタフ・カイテル(ドイツ語: Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel, 1882年9月22日 - 1946年10月16日)は、ドイツ陸軍軍人ナチ党体制下のドイツにおける軍部の最高幹部であった。陸軍における最終階級は元帥

第二次世界大戦中に国防軍最高司令部(OKW)総長を務め、総統アドルフ・ヒトラーを補佐した。終戦時にはソ連に対する降伏文書(英語版)にドイツ軍を代表して調印した。戦後、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けて刑死した。
経歴
生い立ち

1882年、ブラウンシュヴァイク公国ハルツ山地ヘルムシェローデ(de:Helmscherode、現在はバート・ガンダースハイムに併合されている)に出生[1][2][3]

父は小規模な農場を所持していた地主カール・カイテル(Carl Keitel)。母はその妻アポロニア(Apollonia)(旧姓フィセリング(Vissering))[1]。弟にボーデヴィン・カイテル(de:Bodewin Keitel)がいる。弟ものちに軍人となり、カイテルの引き立てで1938年から1942年までドイツ陸軍人事部長を務めることになる。

少年時代は家族から離れてゲッティンゲンギムナジウムに学んだ。
ドイツ帝国軍時代

同校を卒業後、父親の命令で軍人の道を進むこととなった[4]。士官学校を経ずして[4][5]、1901年3月にヴォルフェンビュッテル(de:Wolfenbuttel)の第46野戦砲兵隊に士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した[1][6][疑問点ノート]。

1902年8月に少尉(Leutnant)に進級するとともに[6]、公国の首都ブラウンシュヴァイクの勤務となる[4]。同地で摂政の宮廷舞踏会などに招かれるようになり、将来を約束された軍人となっていく。非常に真面目で「ギャンブルもせず、浮いた噂の一つもない」と言われていた[4]

野戦砲兵学校や軍事乗馬学校を出た後、1908年には所属する第46野戦砲兵連隊の連隊長副官となった[1][6]。1909年にハノーファーの資産家の地主の娘リーザ・フォンテーン(Lisa Fontaine)と結婚[1][7]。カイテル夫妻は6児をもうけた。

第一次世界大戦が開戦した際には第46砲兵連隊長副官の中尉だった。カイテルの連隊は西部戦線に動員された[1]。カイテルは榴弾の破片で戦傷を負い、二級鉄十字章一級鉄十字章、そして戦傷章黒章を受章した[6][7]。この第一次世界大戦初期の戦闘の参加はカイテルの生涯で唯一の実戦経験である[7]

病院を退院した後、1915年3月から参謀本部に配属となる。本部内では事務能力を高く認められて、1917年にはドイツ陸軍の歴史の中で最年少の参謀本部首席将校となった[8]。またこの参謀本務勤務時代に四歳年長のヴェルナー・フォン・ブロンベルク少佐(当時)と親しくなった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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