ヴィリー・ブラント
[Wikipedia|▼Menu]

ドイツ政治家ヴィリー・ブラントWilly Brandt

生年月日1913年12月18日
出生地 ドイツ帝国
自由ハンザ都市リューベック
没年月日 (1992-10-08) 1992年10月8日(78歳没)
死没地 ドイツ連邦共和国
ラインラント=プファルツ州
ウンケル
所属政党ドイツ社会民主党(1930-1931)
ドイツ社会主義労働者党(1931-1946)
ドイツ社会民主党(1948-1992)
配偶者アンナ・カルロータ・トルキルゼン
ルート・ベルガウスト
ブリギッテ・ゼーバッハー
サイン
第4代連邦首相
内閣ヴィリー・ブラント内閣
在任期間1969年10月21日 - 1974年5月7日
連邦大統領グスタフ・ハイネマン
ドイツ連邦共和国
連邦副首相兼外務大臣
内閣クルト・ゲオルク・キージンガー内閣
在任期間1966年12月1日 - 1969年10月20日
西ベルリン市長
在任期間1957年10月3日 - 1966年12月1日
その他の職歴
社会主義インターナショナル議長
1976年 - 1992年
ドイツ社会民主党党首
1964年 - 1987年
東ドイツ社会民主党(ドイツ語版)名誉党首
1990年2月24日 - 1990年9月26日
テンプレートを表示

ノーベル賞受賞者
受賞年:1971年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:東ドイツを含めた東欧諸国との関係正常化を目的とした、彼の東方外交に対して

ヴィリー・ブラント(Willy Brandt、1913年12月18日 - 1992年10月8日)は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。第4代連邦首相1969年 - 1974年)。ドイツ社会民主党 (SPD) 党首1964年 - 1987年)。リューベック出身。
概要

労働者の家庭に生まれ第二次大戦前にドイツ社会民主党に所属し、その後に党を離れたが反ナチス活動ノルウェーに逃れる。戦後は西ドイツの社会民主党に戻り、西ベルリン市長となって、1958年のベルリン危機、1961年のベルリンの壁の建設に対処し、1964年に社会民主党党首となった。1966年にキリスト教民主(社会)同盟との大連立内閣を組んでキージンガー内閣で外相となり、1969年秋に自由民主党と連立内閣を組み、戦後初の社会民主党党首として首相に就任した。在任中は積極的な東方外交を展開して、東西の緊張緩和を進め、東ドイツとも基本条約を結んで両ドイツ間の懸案を少しずつ解決していくことを示した。1971年ノーベル平和賞を受賞したが、1974年に秘書のギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイと発覚した(ギヨーム事件)により首相を辞任した。後に社会主義インターナショナル議長(1976年 - 1992年)を務めた。
経歴
生い立ち

ヴィリー・ブラントの生い立ちはかなり複雑で、私生児であることから、政敵の攻撃を受けることが多かった。1961年夏のベルリンの壁建設の時も当時のアデナウアー首相に選挙演説で出生のことを揶揄されたりしたが、ブラントは一切ごまかそうとせず、かえって周囲の評価を高めた。

本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム (Herbert Ernst Karl Frahm) で、1913年12月18日、リューベック[注 1]で生まれ、父はヨーン・メラー、母はマルタ・フラームであった。2日後にリューベックの出生登録簿に生まれた男子の名前と母のみの登録がされ、婚外子であった[1]

教会も私生児には冷たく、近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を授けることを拒んだため、母マルタ・フラームは1914年2月26日、市内の離れた場所にある同じルター派の聖ローレンツ教会に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。

母マルタ・フラームの父(ブラントの祖父)はルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームで母はヴィルヘルミーネ・エーヴェルトであったが、このブラントの母方の祖母はブラントが生まれる数週間前に亡くなった。そして母マルタは祖父ルートヴィッヒの実子ではなくヴィルヘルミーネが未婚時に生まれた娘であった。しかしルートヴィッヒは父親としてマルタを育て、そしてマルタが生んだブラントの父親代わりとなって幼少期にはパパと呼ばれ、ブラントの高校卒業証書でも父親と記入されていた。やがて第一次世界大戦で、祖父ルートヴィッヒは徴兵で戦線に赴き、4年後の大戦の終わりで戻り、1919年に10歳年下のドロテーア・シュタールマンと再婚した。そして母マルタの方も息子を養うため厳しく働かねばならなかった。そして1926年に左官職人頭のエミール・クールマンと結婚した。この時マルタは32歳でブラントは13歳であった。母はマルタ・クールマンとなり、やがて異父弟ギュンター・クールマンが生まれている。母マルタは「余り気張らない質で自然に愛着を持ち教養を渇望していた」とされ、「太り気味だが活発」であったとブラントは後に語っている。1969年8月に75歳で亡くなったが、これはブラントが首相に就任する2カ月前であった[2]

そして父ヨーン・メラーについて、ブラント自身が本当の父親を知ったのは戦後になってからで、母マルタに思い切って手紙で問い合せた時に母から送ってきたメモ用紙に書いていた名前がヨーン・メラーであった。1949年5月に姓名変更の申請手続きをした時に、ブラントはこの名前を父親欄に記入している。そして1961年6月に当時西ベルリン市長として東西対立の狭間で苦悩していた時期に、ゲルト・アンドレ・ランク[注 2]という人物から手紙が来て、実父の消息を知った。実父は第一次世界大戦で記憶能力が損なわれ、戦後は会計係として働き1958年にハンブルクで亡くなっていた。そして「並外れた深い人間味の持ち主で、周囲の人々に強い印象を与える品格の持ち主」[注 3]であり、「穏やかで円満で思慮深い人」[注 4]であったという。ブラントは父親についてほとんど何も語らず、75歳になって書いた「回想録」で初めてこのことを明らかにした[3]
優秀な学業成績

育ての親でもある母方の祖父ルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームはいろいろと面倒を見てくれたが、必ずしも父親代わりにはなれなかった[4]。しかし第一次大戦から帰還した祖父がいることで行動や指針の面で頼りになる男性を身近にもって、6歳以降にブラントは成長していく。そして祖父ルートヴィッヒはトラック運転手として働き、ブラント少年に和やかな子ども時代を過ごさせ、社会主義的な労働運動への道に導き、専門の養成教育が受けられるようにして、その性格形成に大きく関わった一人である[5]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:208 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef