ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ
Vittorio Emanuele
サヴォイア家
ヴィットーリオ・エマヌエーレ(2009年)

全名一覧参照

Vittorio Emanuele Alberto Carlo Teodoro Umberto Bonifacio Amedeo Damiano Bernardino Gennaro Maria di Savoia
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・アルベルト・カルロ・テオドーロ・ウンベルト・ボニファーチョ・アメデーオ・ダミアーノ・ベルナルディーノ・ジェンナーロ・マリーア・ディ・サヴォイア

称号ピエモンテ公
ナポリ公
身位王太子(王制廃止)
敬称殿下(王制廃止)
出生 (1937-02-12) 1937年2月12日
イタリア王国カンパニア州ナポリ
死去 (2024-02-03) 2024年2月3日(86歳没)
スイスジュネーヴ
埋葬2024年2月10日
イタリアトリノ、スペルガ大聖堂
配偶者マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)
子女エマヌエーレ・フィリベルト
家名サヴォイア=カリニャーノ家
父親ウンベルト2世
母親マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ
宗教キリスト教カトリック教会
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(イタリア語: Vittorio Emanuele di Savoia, 1937年2月12日 - 2024年2月3日[1][2])は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男(王太子)で、サヴォイア家当主及びイタリア王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において王位を含め全ての貴族称号が承認されていないが、国内の王党派からは「ナポリ公」と呼ばれ、一部の急進王党派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」とも呼ばれた。

イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれていた。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされていた。一方、亡命先のスイスやフランスなどで様々な非合法事業への関わりで逮捕・収監歴があり、私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもあった。
経歴
生い立ち祖父ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に抱かれるヴィットーリオ

1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプト王国へ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。

しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて姉や妹たちとスイスに移り、幼少期を送った。
貴賎結婚ヴィットーリオとのちの妻マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)(1969年)

1971年スイスの富裕な資本家の娘で、女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)と結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した[3][4]。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている[5]王位請求者としての権限で、リコルフィ・ドーリアをナポリ公妃として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた[6]

サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは、ヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立王位請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派(ヴィットーリオ・エマヌエーレの系統)とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。
非合法活動

ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[7]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。
銃撃事件

1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[8]

1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[8]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[9]
イタリアへの帰国

イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に、帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した[10]。共和国政府側も折れることなく対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国を決定した。


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