ソビエト連邦の政治家ヴィタリー・ウォロトニコフВиталий Воротников
生年月日1926年1月20日
出生地 ソビエト連邦
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ヴォロネジ
没年月日 (2012-02-20) 2012年2月20日(86歳没)
死没地 ロシア、モスクワ
出身校クイビシェフ航空技術大学
ヴィタリー・イワノヴィチ・ウォロトニコフ(ヴォロトニコフ、ボロトニコフ、ロシア語: Вита?лий Ива?нович Воротнико?в、ラテン文字転写の例:Vitaly Ivanovich Vorotnikov, 1926年1月20日 - 2012年2月20日)は、ソビエト連邦の政治家でロシア人。
ミハイル・ゴルバチョフ時代初期にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国閣僚会議議長(首相)やロシア共和国最高会議幹部会議長を務めた。 クイビシェフ(現サマーラ)航空技術大学を卒業し、クイビシェフ州ソビエト執行委員会議長
来歴・人物
1982年6月、ウォロトニコフはクラスノダール地方第一書記に任命される。前任のクラスノダール地方第一書記セルゲイ・メドゥノフ(ロシア語版)はブレジネフ書記長の友人で大規模なキャビア取引汚職事件に関与して1982年春に解任されていた。ウォロトニコフは、クラスノダール地方の整風に努めた。1983年6月ソ連共産党中央委員会総会で政治局員候補に選出され、同総会でソ連共産党中央統制委員会(ロシア語版)議長に選出されたミハイル・ソロメンツェフ政治局員の後任としてロシア共和国最高会議(ロシア語版)によって閣僚会議議長(首相)に任命された。1983年12月には政治局員に昇格し、将来のソ連首相候補の一人とも言われるようになる。
1984年のアンドロポフ死後もその地位を保ち、1985年、コンスタンティン・チェルネンコ書記長死後の政治局会議ではゴルバチョフを支持した。ゴルバチョフ時代は一貫して保守派に近い穏健改革派の位置を維持した。ゴルバチョフの始めたペレストロイカが大規模な政治改革を伴うようになり、共産党と国家の一元化の観点から、ソ連を構成する各民族共和国の共産党指導者(党第一書記)は、最高会議幹部会議長を兼務することとなった。1988年にウォロトニコフもロシア共和国最高会議幹部会(ロシア語版)議長(ロシア語版)に就任した。旧来の最高会議を改組して人民代議員大会が創設されることになり、1990年に最高会議選挙が実施、急進改革派のボリス・エリツィンが最高会議議長(ロシア語版)に就任し、政治的に失権した。
2012年2月20日、モスクワで死去[1]。86歳没。
脚注[脚注の使い方]^ ⇒В Москве скончался бывший член политбюро ЦК КПСС Виталий Воротников Kommersant 2012年2月21日閲覧
公職
先代
ウラジーミル・オルロフ(ロシア語版) ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
クイビシェフ州ソビエト執行委員会議長(ロシア語版)
1967年 - 1971年次代
ヴェニヤミン・コノフ(ロシア語版)
先代
ミハイル・ソロメンツェフ ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
閣僚会議(ロシア語版)議長