ヴィクトール・ノワール
Victor Noir
ヴィクトール・ノワール(エルネスト・ウジェーヌ・アペール
ヴィクトール・ノワール(Victor Noir)ことイヴァン・サルモン(Yvan Salmon、1848年7月27日[1] - 1870年1月11日)は、フランスのジャーナリストである。皇帝ナポレオン3世の従兄弟ピエール・ボナパルトにより射殺されたことで、民衆の強い憤りを招き、第二帝政への反感を高めた。パリのペール・ラシェーズ墓地にある彼の墓の前には、死亡したときの姿を写し取った像が置かれたが、その股間の膨らみから、触ると子宝に恵まれるとされるようになった。 ヴォージュ県のアティニー 「ヴィクトール・ノワール」は、母親の旧姓にちなんでつけたペンネームである。ノワールはパリに移り、様々な新聞社を渡り歩いた。1868年5月には週刊紙『ル・ピロリ』(Le Pilori)の編集長に就任した。この新聞は、文字が赤く印刷されているのが特徴で、アルトゥール・アルヌール ピエール=ナポレオン・ボナパルトは、ナポレオン1世の弟リュシアンの息子であり、当時の皇帝ナポレオン3世の従兄弟に当たる。熱烈な自由主義者で、1848年からコルシカ島選出の国会議員となっていたが、1851年12月2日にナポレオン3世がクーデターを起こした後は、政治の場から引退し、パリ郊外(現在はパリ16区の一部)の町オートゥイユ
若年期、家族
キャリア
射殺
1870年初頭、ピエールは、バスティアの急進派の新聞『ラ・ルヴァンシュ』(La Revanche)の反ボナパルティズムな記事に反論して、内務省職員デラ・ロッカが編集する忠誠派の新聞『ラヴェニール・ド・ラ・コルス』(L’Avenir de la Corse)に、コルシカ島の共和主義者(『ラ・ルヴァンシュ』の編集者)は裏切者であり虐殺されるべきだと述べた記事を掲載した。以降、両紙の間で激しい論争となった。当時の雑誌に掲載された、射殺の様子を描いたイラスト
アンリ・ロシュフォールの『ラ・マルセイエーズ』紙は、以前から反体制派であり、帝政に対する反対運動を展開していた。同紙はコルシカ島の2紙の論争に干渉して、ピエールやその家族を侮辱する記事を掲載した。ピエールはロシュフォールに決闘を申し出た。ロシュフォールは、昔から決闘に慣れ親しんでおり、ナポレオン1世の義理の弟ジョアシャン・ミュラの息子のアシル・ミュラ(英語版)と決闘したこともある[5]。1月11日、ロシュフォールは決闘の条件を話し合うために、証人に選んだ『ラ・マルセイエーズ』紙主幹のアルトゥール・アルヌールとジャン=バティスト・ミリエールをピエールの元に送ったが、2人はピエールの家に到着するのが予定の時刻から遅れていた[1]。
一方、コルシカ島の熱烈な愛国者で、『ラ・ルヴァンシュ』紙のパリ特派員だったパスカル・グルーセ(英語版)も、この一件で侮辱を感じていた。ピエールに対し、侮辱的な記事の釈明と撤回、さもなくば決闘を申し込むために、ヴィクトール・ノワールとウルリッヒ・ド・フォンヴィエルをピエールの家に向かわせた。ノワールは、皇帝の親族を相手にするということで、礼装を身に着けた。また、ピエールの家に向かう前に、2日後に結婚式を挙げる予定だった婚約者に会いに行った[1]。ノワールたちは午後1時頃にピエールの家に到着したが、それはロシュフォールの証人が到着するよりも前だった[1]。
ピエールはロシュフォールから遣わされる証人を待っており、来訪したのはそれだろうと思って、名前も聞かずに部屋に通した。しかし、部屋に入ってきた者はグルーセの遣いだと名乗ったため、ピエールは混乱した[1]。