ヴィクトワール
Victoire
ザクセン=コーブルク=コハーリ家
1852年、フランツ・ヴィンターハルター画
全名一覧参照
Viktoria Franziska Antonia Juliane Luise
ヴィクトリア・フランツィスカ・アントーニア・ユリアーネ・ルイーゼ
Victoire Francoise Antoinette Julienne Louise
ヴィクトワール・フランソワーズ・アントワネット・ジュリエンヌ・ルイーズ
称号ヌムール公爵夫人
出生 (1822-02-14) 1822年2月14日
オーストリア帝国、ウィーン
死去 (1857-12-10) 1857年12月10日(35歳没)
イギリス
イングランド、サリー、クレアモント・ハウス
埋葬1857年
イギリス
イングランド、サリー、ウェイブリッジ、セント・チャールズ・ボッロメーオ礼拝堂
1979年(改葬)
フランス、ドルー、サン=ルイ王室礼拝堂
配偶者ルイ・シャルル・ドルレアン
子女一覧参照
ガストン
フェルディナン
マルグリット
ブランシュ
父親フェルディナント・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
母親マリア・アントーニエ・フォン・コハーリ
宗教 キリスト教カトリック教会
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ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー(フランス語: Victoire de Saxe-Cobourg-Kohary, 1822年2月14日 - 1857年12月10日)はザクセン=コーブルク=コハーリ家の公女で、フランス王族ヌムール公ルイ・シャルル・ドルレアン(フランス王ルイ・フィリップの次男)の妃。
ドイツ語名はヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ(Viktoria von Sachsen-Coburg-Saalfeld-Kohary)。
生涯ヴィクトワールと従姉のヴィクトリア女王(フランツ・ヴィンターハルター・1852年)
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公子フェルディナントと妃のコハーリ・デ・チャーブラーグ・エ・シトニャ公女マリア・アントーニエの長女としてウィーンで生まれた。全名はヴィクトリア・フランツィスカ・アントーニア・ユリアーネ・ルイーゼ(ドイツ語: Viktoria Franziska Antonia Juliane Luise)。 母はコハーリ・デ・チャーブラーグ・エ・シトニャ公フェレンツ・ヨージェフの1人娘で公家の跡取りだった。祖父フィレンツ・ヨージェフが1826年に死んだ後、母はスロバキアとハンガリーの広大な地所を受け継いでいる。ポルトガル王フェルナンド2世は兄、イギリス女王ヴィクトリアとイギリス王配アルバートは、ともに従姉と従兄である。また、ベルギー王レオポルド2世とメキシコ皇后カルロータの兄妹ともいとこ同士である。
1840年4月27日、サン=クルーのサン=クルー城
(英語版)においてフランス王ルイ・フィリップの次男ヌムール公ルイ・シャルル・ドルレアンと結婚した。なお、1843年にはルイ・シャルルの妹クレマンティーヌとヴィクトリアの兄アウグスト公子が結婚し、初代ブルガリア王フェルディナントらをもうけている。1848年の2月革命の後、オルレアン家はイングランドに亡命し落ち着いた。
ヌムール公爵夫妻は4人の子をもうけ、生涯未婚だった末子ブランシュ以外は子孫がいる。
1857年、クレアモント・ハウスで次女ブランシュを出産した約2週間後に亡くなり、ウェイブリッジ(英語版)のセント・チャールズ・ボッロメーオ礼拝堂に埋葬された。1979年、オルレアン家の歴史的な墓所であるドルーのサン=ルイ王室礼拝堂(フランス語版)に改葬された。 ヴィクトワールはヌムール公爵との間に2男2女をもうけた。 ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリーの系譜 8. ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンスト・フリードリヒ
子女
ルイ・フィリップ・マリー・フェルディナン・ガストン(1842年 - 1922年) - ウー伯。ブラジル皇女イザベルと結婚。
フェルディナン・フィリップ・マリー(1844年 - 1910年) - アランソン公。バイエルン女公ゾフィー・シャルロッテと結婚。
マルグリット・アデライード・マリー(1846年 - 1893年) - ポーランドの貴族ヴワディスワフ・チャルトリスキ公爵と結婚
ブランシュ・マリー・アメリー・カロリーヌ・ルイーズ・ヴィクトワール
系譜
4. ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ
9. ゾフィー・アントイネッテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル