ヴィクトル=フランソワ_(第2代ブロイ公爵)
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ヴィクトル=フランソワ・ド・ブロイ
Victor-Francois de Broglie

生誕 (1718-10-19) 1718年10月19日
フランス王国パリ
死没1804年3月30日(1804-03-30)(85歳)
プロイセン王国ミュンスター
所属組織フランス王国
部門陸軍
軍歴1734年 - 1792年
最終階級フランス元帥
戦闘オーストリア継承戦争
七年戦争
アメリカ独立戦争
フランス革命戦争
署名

第2代ブロイ公爵ヴィクトル=フランソワ(フランス語: Victor-Francois, duc de Broglie、1718年10月19日 - 1804年3月30日)はフランス王国貴族、軍人、後にフランス元帥
生涯

ヴィクトル=フランソワは青年期から軍人としての道を歩んだ。父の初代ブロイ公爵フランソワ=マリーとともにポーランド継承戦争で従軍、1734年のサン・ピエトロの戦いグアスタッラの戦いに参戦した。同年、大佐に昇進した[1]

オーストリア継承戦争では1742年のプラハ包囲戦に参加し、准将に昇進した。1744年と1745年にライン川での戦闘にも参加した。また1745年には父が死去したためブロイ公位を継承した。その後、少将(英語版)に昇進してモーリス・ド・サックス元帥の下で低地諸国を転戦、ロクールの戦いローフェルトの戦いマーストリヒト包囲戦に参加した。終戦のときには中将に昇進した[1]

七年戦争ではデストレ公スービーズ公、コンタード侯(英語版)の下で働き、ハステンベックの戦い以降のすべての戦闘に参加した。1759年のベルゲンの戦いカール・ヴィルヘルム・フェルディナント王子に勝利したことでフランス王ルイ15世によりフランス元帥に叙され、神聖ローマ皇帝フランツ1世からはライヒスフュルスト(英語版)の称号を与えられた[1]

その後、ミンデンを占領したが、コンタード侯の下で戦ったミンデンの戦いでは敗北した。ブロイ公は指揮を引き継ぎ、翌年のコルバッハの戦いで勝利したが、1761年のフィリングハウゼンの戦いでは敗北した。戦闘での不面目によりブロイ公は戦場から遠ざけられ、再び呼び戻されたのは1778年にフランスが13植民地に味方してアメリカ独立戦争に参戦したときだった。フランス革命では革命に断固として反対し、重要な役割を演じた[1]。彼は1789年7月にヴェルサイユで軍を率いた後、フランスから亡命し、1792年に短期間フランス亡命軍(英語版)を率いた[1]

ブロイ公は1804年にミュンスターで死去したが、長子のシャルル=ルイ=ヴィクトル(英語版)が恐怖政治時期の1794年に処刑されたため、孫のヴィクトル(英語版)が公位を継承した。
家族

シャルル=ルイ=ヴィクトル・ド・ブロイ
(英語版)(1756年 - 1794年)

モーリス=ジャン・ド・ブロイ(英語版)(1766年 - 1821年)

関連項目


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