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ヴィクトル・ユーゴー
フランス子爵 (1845?48)
Etienne Carjatによるウッドベリータイプ、1876年
セーヌ県選出の元老院議員
任期
1876年1月30日 ? 1885年5月22日
選挙区パリ
セーヌ県選出の国民議会議員[1]
任期
1871年2月16日[1] ? 1871年3月8日[2]
選挙区パリ
セーヌ県選出の代議院議員
任期
1848年4月24日 ? 1851年12月3日
選挙区パリ
アカデミー・フランセーズ席次14
任期
1841年1月7日 ? 1885年5月22日
前任者ネポミュセーヌ・ルメルシエ
ジャンル小説, 演劇, 詩
文学活動ロマン主義
代表作『エルナニ』(1830年、戯曲)
『ノートルダム・ド・パリ』(1831年)
『静観詩集』(1856年)
『レ・ミゼラブル』(1862年)
『九十三年』(1874年)
活動期間1829?1883
影響を受けたもの
フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン
ウォルター・スコット
ジャン=ジャック・ルソー
ヴォルテール
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ
影響を与えたもの
チャールズ・ディケンズ
フョードル・ドストエフスキー
レフ・トルストイ
アイン・ランド
アーヴィン・ウェルシュ
署名
ウィキポータル 文学
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ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo[3] [vikt?? ma?i y?o] ( 音声ファイル)、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。
少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。
1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。
日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。 共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー[注 1] とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[注 2] の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である[4]。アベル・ジョゼフ[注 3] とウジェーヌ[注 4] という2人の兄がいる。 生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。 1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る[注 5]。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[注 6] の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン[注 7] にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で[4]、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。 ――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。 17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[4]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[注 8] との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[注 9] で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[注 10] に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[4]。 1823年7月16日、長男レオポール[注 11] が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[注 12] と命名する。 1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。 翌1826年11月2日には次男シャルル[注 13] が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[注 14] が誕生する。 1830年4月、ジャン・グジョン通り[注 15] へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。 そんな混乱のなか、同年7月28日、次女アデール[注 16] が誕生する。 1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー[注 17] のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞[注 18] に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』[注 19] 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。 1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』[注 20] が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』[注 21] を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。 1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ[注 22] で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。
生涯
出生から青年期まで
私生活
創作