ヴァーツラフ・ニジンスキー
[Wikipedia|▼Menu]
サンクトペテルブルク郊外、クラスノエ・セロ(ru)にて(1907年

ヴァーツラフ・フォミーチ・ニジーンスキー (: Ва?цлав Фоми?ч Нижи?нский, : Wac?aw Ni?y?ski, : Vaslav Fomich Nijinsky[1], 1890年3月12日 - 1950年4月8日) は、ロシア帝国キエフ出身のバレエダンサー振付師バレエダンサー振付家ブロニスラヴァ・ニジンスカは妹。
経歴
生い立ち

1890年3月12日 、旅回りのダンサーだった両親がロシア帝国キエフ(現在はウクライナ)に滞在中、生まれる。

両親共にポーランド人で、ニジンスキー自身ワルシャワカトリックの洗礼を受けたポーランド人でもあったが、ポーランド語は苦手で、母語ロシア語とするロシア人の自認も持っていた。

3人兄弟の真ん中で、幼い頃は非常に活発で多動気味だった。兄のスタニスラフも多動の傾向があり、若年のうちに精神疾患を発症、精神病院に入院したまま第一次世界大戦のさなか自殺。妹のブロニスラヴァは兄ヴァーツラフを追いバレエダンサーとなり、後にバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)における唯一の女性振付師として活躍。母親は厳格ながらも愛情深い女性だったが、父親は愛人と出奔。
バレエダンサーとして薔薇の精』(1911年

1898年、9歳で当時の首都サンクトペテルブルクロシア帝室マリインスキー劇場附属舞踊学校に入学。エンリコ・チェケッティらに師事し、卒業後はマリインスキー劇場主役に抜擢された。

その頃出会った天才興行師セルゲイ・ディアギレフはニジンスキーの人生を大きく飛躍させた。当時の帝室舞踊学校生は男女を問わずパトロンに支援されるのが一般的で、ニジンスキーとディアギレフの出会いもその一つだった。二人は公私に渡り深い親交を結び、ニジンスキーの人生にディアギレフが深く関与するようになった。

1909年、ニジンスキーがマリインスキー劇場を離れると、ディアギレフはバレリーナのアンナ・パヴロワ、振付師のミハイル・フォーキンらも連れ、パリバレエ・リュスを旗揚げした。公演は各地で大成功を収め、ヨーロッパ芸術界でディアギレフの名は不動のものとなった。その後ニジンスキーはマリインスキー劇場に復帰したが、1911年に劇場との間にトラブルを起こし解雇、再びバレエ・リュスに戻った。バレエ・リュスではフォーキン振付けの『薔薇の精』『ペトルーシュカ』(イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲)に主演。特に『薔薇の精』では空を飛ぶような高い跳躍を見せ観衆を驚かせた。
振付師として・ディアギレフとの別れ

その後、ニジンスキーはディアギレフのサポートによって3つのバレエ作品を振り付けた。ドビュッシー管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」による『牧神の午後』(1912年)、ドビュッシーが書き下ろした『遊戯』(1913年)、リヒャルト・シュトラウス交響詩による『ティル・オイレンシュピーゲル』(1916年)である。しかし『牧神の午後』の振付けはあまりに性的だったため批評家から不評を買い、ディアギレフすらニジンスキーの振付けの才能を疑問視し始めた。そんな中でニジンスキーが振り付けをしたのがストラヴィンスキー作曲の『春の祭典』(1913年)だった。ニジンスキーはこの作品で、19世紀のクラシック・バレエでは考えられなかった、を内股にしを曲げるという振付けを行った。まさに20世紀バレエの幕開けであった。

1913年バレエ・リュス南米公演が開催。かつて占い師に『水の上で死ぬ』と予言されたディアギレフは海を恐れツアー帯同しなかった。この航海の途中でニジンスキーは自身の大ファンで、バレエ・リュスに押しかけて団員にまでなったハンガリー貴族の令嬢ロモラ・デ・プルスキに求婚。ニジンスキーがブエノスアイレスでロモラと結婚したとの報せを受けたディアギレフは激怒し、二人を解雇してしまう。

1914年、解雇されたニジンスキーは新たにバレエ団を旗揚げするも失敗。心労からうつ状態になったり、錯乱し、他人に殴り掛かるなど奇行が見られるようになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef