ヴァージニア・チェリル
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ヴァージニア・チェリル
Virginia Cherrill
1929年ごろ
本名ヴァージニア・チェリル
別名義ヴァージニア・チャイルド=ヴィリアーズ
ヴァージニア・チェリル・マルティニ
生年月日 (1908-04-12) 1908年4月12日
没年月日 (1996-11-14) 1996年11月14日(88歳没)
出生地 アメリカ合衆国イリノイ州 ハンコック郡カーセッジ
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州 サンタバーバラ
国籍 アメリカ合衆国
職業女優
ジャンル映画
活動期間1931年 - 1936年
活動内容1931年:『街の灯
1934年 - 1935年ケーリー・グラントとの結婚生活
1936年:活動停止
1983年:『Unknown Chaplin』
1996年:死去
配偶者アーヴィング・アドラー
ケーリー・グラント(1934年 - 1935年)
第9代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド=ヴィリアーズ(1937年 - 1946年)
フローラン・マルティニ(1948年 - 1996年)
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ヴァージニア・チェリル(Virginia Cherrill, 1908年4月12日 - 1996年11月14日)はアメリカ合衆国女優チャールズ・チャップリンの1931年の映画『街の灯』における盲目のヒロインとして知られるが、それに関わること以外は断片的にしか知られていなかった。しかし、没後になってからその生涯が徐々に知られるようになった[1]
生涯
前半生

ヴァージニア・チェリルは1908年4月12日、イリノイ州ハンコック郡カーセッジの農場主ジェームズ・E・チェリルとブランシュ・チェリル(旧姓:ウィルコックス)の間に生まれる[1]ウィスコンシン州ケノーシャの学校を卒業後、シカゴに出た[2]。ヴァージニアは当初、芸能界には興味を持っていなかったが、のちに『シェーン』の主演を務めたアラン・ラッドの二番目の妻となるスー・キャロル(英語版)と親友になり、後年、その縁が元になってハリウッド映画に出ることとなる。1925年、ヴァージニアはシカゴで『クイーン・オブ・アーティスト・バル』に選ばれる[1]。興行王フローレンツ・ジークフェルド(英語版)がヴァージニアに接近して舞台に出演するようスカウトを行ったものの、ヴァージニアはこれを了承しなかった[1]。やがて新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストからの誘いを受けてカリフォルニアに移り、またシカゴ時代に知り合った弁護士のアーヴィング・アドラーとの結婚生活を始めるが、この結婚生活はヴァージニアを失望させるものだった[1]。この時点では、むしろ社交界に軸を置いていた。
映画界

ヴァージニアとチャップリンの出会いには二通りの説がある。1928年夏、アドラーとの結婚が破たんしたヴァージニアはハリウッドに遊びに来ており、ハリウッド・アメリカン・リージョン・スタジアムで行われたボクシングの試合を見に来ていたチャップリンに目をかけられ、チャップリンのスクリーンテストを受けることになった、というもの[3][4]。もう一つはチャップリン自身の弁によるもので、サンタモニカのビーチで水着姿で撮影中のヴァージニアの姿が忘れられず、スクリーンテストへの誘いの電話をかけた、というものである[3][5]。チャップリンはヴァージニアにエドナ・パーヴァイアンスのような雰囲気を感じており、また、ヴァージニア以外の女優にも『街の灯』として結実する新作に登場させる盲目のヒロインの役に必要な「盲目の人間の演技」のテストを行わせたが、ヴァージニアのみが「自然に盲目らしく見せる」ことに成功したこともあって、ヴァージニアが新作のヒロインに選ばれた[3]。ヴァージニアの両親、ジェームズとブランシュはヴァージニアの映画界入りには賛成していなかった[6]

しかし、ここで一つ問題が起こる。ヴァージニアが特にチャップリンを気に入っておらず、チャップリンもまたヴァージニアには好意を持てなかったことで、チャップリン視点でいえば、個人的に好意を寄せていない女優と共演するのは初めてだった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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