ヴァン・モリソン
Van Morrison
ヴァン・モリソン(2013年)
基本情報
出生名George Ivan Morrison
生誕 (1945-08-31) 1945年8月31日(78歳)
出身地 北アイルランド ベルファスト
ジャンルロック、ブルース、ブルー・アイド・ソウル
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカル、ギター、ハーモニカ、キーボード、サクソフォーン
活動期間1964年 -
レーベルバング・レコード
ワーナー・ブラザース・レコード
マーキュリー・レコード
ポリドール・レコード
ヴァージン・レコード
ブルーノート・レコード
RCAレコード
共同作業者ゼム
公式サイトwww.vanmorrison.com
ヴァン・モリソン(Van Morrison、本名Sir George Ivan Morrison、OBE、1945年8月31日 - )は、イギリス(北アイルランド出身)のミュージシャン。高い音楽性と歌唱力で、多くのミュージシャンからの尊敬を集める。1993年にロックの殿堂入りを果たし[1]、1996年に大英帝国勲章OBEを受章した[2]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第24位[3]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第42位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第22位[4]。 ベルファスト出身[5]。音楽好きの家庭に育ち、15歳でMonarchsというバンドに加入し音楽活動を始める[5]。1964年にゼムを結成し、デビュー。「グロリア」などのヒットを飛ばし、当時イギリスで隆盛したブルー・アイド・ソウルのシンガーとして人気を博す。 1966年のアメリカ・ツアー終了後、モリソンはゼムを脱退し、一旦は帰国するもののバート・バーンズの誘いに応じてアメリカに渡りソロに転向[6][5]。1967年にはバング・レコードから発売されたシングル「ブラウン・アイド・ガール」が全米10位のヒットとなるが[7]、プロデューサーのバート・バーンズはモリソンの意向を無視してソロ・アルバム『ブロウイン・ユア・マインド』を発売し、同年末にバーンズが死去して、モリソンはバング・レコードを離れた[5]。 1968年に発売されたワーナー・ブラザース・レコード移籍第1弾アルバム『アストラル・ウィークス』は、リリース当時は1万5千枚ほどしか売れなかったが[8]、後にポップ・ミュージック史を代表する名盤として評価を受け[9][10]、2001年にはアメリカ国内の売り上げが50万枚を突破した[8]。続く『ムーンダンス』はBillboard 200で29位のヒットとなった[7]。1970年11月に『ストリート・クワイア』を発表。 1971年4月にモリソンは妻のジャネット・プラネットを連れてニューヨークからカリフォルニア州マリン郡に移住[11]。移住する前にモリソンはにニューヨーク州アルスター郡のベアズヴィル・サウンド・スタジオ
略歴
同年10月、サンフランシスコで録音した『テュペロ・ハニー』を発表(全米27位[7])。R&Bやジャズ、フォーク、ブリティッシュ・トラッド、ケルト音楽などの要素が濃い音楽性は、高い評価を受けた。1973年にベルファストへ戻り、翌1974年にアルバム『ヴィードン・フリース』をリリースした後は活動を停止するが、1977年に復帰作『安息への旅』をリリースした[5]。1979年のアルバム『イントゥ・ザ・ミュージック』以降は、ジャズやニューエイジの要素を取り入れた瞑想的な作風のアルバムを多数リリースしていく[8]。
1988年のアルバム『アイリッシュ・ハートビート』ではチーフタンズと共演。1989年のアルバム『アヴァロン・サンセット』収録曲「ハヴ・アイ・トールド・ユー・レイトリー」は、ロッド・スチュワートによるカヴァーが1993年にヒットしたことでも知られ、1995年にはチーフタンズとの共演による同曲のセルフ・カヴァーを録音しグラミー賞最優秀ポップ・コラボレーション・ウィズ・ボーカル賞を受賞した[15]。また、ジョン・リー・フッカーのアルバム『ドント・ルック・バック』(1997年)のプロデュースを担当する等、幅広いジャンルのミュージシャンと共演。
2006年には、カヴァー曲を中心としたキャリア初の本格的なカントリー・アルバム『ペイ・ザ・デヴィル』を発表した[8]。