ヴァンフォーレ甲府
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ヴァンフォーレ甲府
原語表記ヴァンフォーレ甲府
呼称ヴァンフォーレ甲府
クラブカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  ブルー
[1]
創設年1965年
所属リーグ日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョンJ2リーグ
クラブライセンスJ1
ホームタウン甲府市韮崎市を中心とする山梨県全県[1]
ホームスタジアムJIT リサイクルインク スタジアム[1]
収容人数15,853[1]
運営法人株式会社ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ[1]
代表者 佐久間悟
監督 篠田善之
公式サイト ⇒公式サイト

ホームカラーアウェイカラー

今シーズン
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
甲府市にあるクラブ事務所(3階および4階)韮崎中央公園にあるクラブハウス

ヴァンフォーレ甲府(ヴァンフォーレこうふ、: Ventforet Kofu)は、日本甲府市韮崎市を中心とする山梨県全県をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。特定の母体企業を持たない、小口スポンサーの支援を受けるクラブの一つである。
概要名前の由来となった風林火山の旗「ヴァンフォーレ山梨スポーツクラブ」も参照

1999年にJリーグへ加盟[1]。チーム名はフランス語の「Vent(風)」と「Foret(林)」を合わせた造語で[1]戦国時代の武将の武田信玄の旗印である「風林火山」に基づいている[1]。また、母体企業を持つJリーグクラブがある[注 1] 一方で、ヴァンフォーレは特定の母体企業を持たず、地元山梨の会社などの小口スポンサーの支援を受けている。ホームタウンは、Jリーグ加盟時は「甲府市、韮崎市を中心とする30市町村」(「平成の大合併」に伴ってその後13市町村)であったが、2005年7月より「甲府市、韮崎市を中心とする山梨県全県」となった[1]

オフィシャルショップは甲府中央商店街「かすがもーる」の一角に「まちなかヴァンフォーレプラザ」があり[1]、ホームゲームのチケット販売やクラブサポーター入会受付、グッズ販売も行なっている。

ホームスタジアムはJIT リサイクルインク スタジアムである[1](詳細は#スタジアムを参照)。練習場についてはヴァンフォーレ甲府の練習場を参照のこと。

マスコットは甲斐犬をモチーフにした[1]ヴァンくん2006年6月12日より)、フォーレちゃん(2009年3月1日より)である[1]

アンセムは2014年までチーム独自のものは存在せず、入場時はJリーグ公式アンセムを使用している。2015年より地元山梨出身で元レミオロメンのボーカルであった藤巻亮太制作のアンセムを使用している[2]
歴史
前身詳細は「甲府サッカークラブ」を参照

1965年に鶴城クラブを拡大化した甲府サッカークラブが前身[1]1972年よりJSL2部1992年よりジャパンフットボールリーグに参入。1995年にヴァンフォーレ甲府にチーム名を変更した[1]。1997年2月に運営法人となるヴァンフォーレ山梨スポーツクラブを設立。1998年にJリーグ加盟が承認され、1999年からのJリーグ ディビジョン2(J2)参加が決まった。
1999年 - 2005年(J2)
1999年

ライセンスの問題[注 2] からそれまで指揮をとっていた塚田雄二に代わり、勝俣進が監督に就任[注 3] した。リーグ戦は開幕10試合未勝利などを喫し、最下位の成績。また、人件費抑制など経費削減に努めたものの、ユニフォームスポンサーがゼロに陥るなど広告収入が激減、さらに関心の薄さや低迷するチームが影響し、観客の伸び悩みにより3年連続の単年度赤字に陥った。
2000年

S級指導者ライセンスを取得した塚田が監督に復帰。登録選手は24人と最低限の人数で、うち6人がアマチュア契約、さらにプロ契約での途中退団者が発生し選手が不足したことからフィジカルトレーナーだった鶴田道弘と急遽プロ契約を結びやりくりせざるを得ない状況であった(鶴田はこのシーズンのみで再び引退)。リーグ戦は2年連続最下位。
19連敗(26戦未勝利)

この年は第4節の仙台戦(小瀬、1-0)の勝利を最後に連敗を続け、第33節の新潟戦(新潟市陸、1-0)に勝利するまで26戦勝利から遠ざかっていた[注 4]。このうち引き分けたのが第11節の鳥栖戦のみであり、残りの25戦はすべて負けていたことから当時の連敗カウントは「25連敗」であった。その後「連勝・連敗は引き分けを挟まない[3]」というルールに改定され、過去の記録もこれが適用されたことから現在は「6連敗の後1分けを挟み19連敗」となっている。19連敗に減ったとはいえ、この記録はJ2はもちろんのことJリーグ全体を見ても1996年に京都が記録した17連敗[注 5] を上回る記録である。また、第4節が3月30日、第33節が9月15日開催であったことから実に5か月半勝利から遠ざかっていたことになる。

その後未勝利記録は2003年にサガン鳥栖が更新(シーズン単体で28試合、翌年甲府に勝利するまで30試合まで継続)した[注 6] が、連敗記録は現在もJリーグ記録である。
経営危機発覚

この年も成績不振もあり、入場者数は浦和戦を除き3,000人を超えた試合が開幕戦のみで、1,000人を割る試合が5試合あった。営業費用は2.4億円とリーグ最小だったのにもかかわらず営業収入は1.8億円(うち分配金は5千万円)でこの年だけでも6千万円の赤字、そして累積赤字は4.5億円を超えて1.2億円の債務超過となり、チームの存続が危ぶまれることとなる。「ヴァンフォーレ甲府経営危機問題」も参照
2001年

存続運動などの結果条件付で2001年の参戦が決まり、上永吉英文が強化部長に就任[注 7] するとブラジルのSEパルメイラスと提携を結び、監督のルイス・ドス・ヘイス・ゴンサルベス及び5人のブラジル人選手の無償提供を受ける。ヘイスをはじめブラジル人選手の来日が大幅に遅れるなど足並みが揃わないまま開幕を迎え、J1昇格目前の仙台にホームで勝利するなどしたが3年連続最下位の成績。また、98失点はJリーグ最多失点記録となった。経営面は3つの存続条件を全て達成すると共にJ参入3年目にして初めて単年度黒字を計上し、翌年度以降のチームの存続が決定した。なお、この年を以て甲府クラブ時代から在籍し、公務員Jリーガーとしてプレーしていた石原大助が引退。翌年以降は全選手がプロ契約のみとなる。
2002年

パルメイラスとの提携を解除し、清水エスパルスと提携を結んだ(別掲)。また、監督に大木武が就任。藤田健倉貫一毅石原克哉水越潤の活躍もあり12チーム中7位に入った。また、9月21日のC大阪戦においてチーム初となる小瀬競技場で満員(当時は13000人収容)を記録した。また、イリュージョニストのプリンセス・テンコーがスポンサーとなり、背中部分に「PRINCESS TENKO」の文字が入った。個人がJリーグのユニフォームスポンサーになるのは中田英寿湘南)や藤原紀香横浜FC)の例があるが、テンコーはホームゲームでイリュージョンを行ったり、甲府のユニフォームを着てテレビ番組に出演するなど甲府を支援。テンコーとは2003年までスポンサー契約が続いた。
2003年

大木が監督を退任(後に清水の監督に就任)し、東京V元監督の松永英機が後任の監督に就任。松永は昨シーズンのプレースタイルを継承。倉貫、石原、水越に横浜FMなどでプレーした外池大亮を加えた中盤は安定し、さらに6月には元日本代表の小倉隆史が加入すると、藤田またはこの年湘南から移籍した須藤大輔によるツートップでチーム力は向上。結果としてJ2参入後初となるシーズン勝ち越しおよび全チームからの勝利を獲得するなど最終節で福岡に抜かれたものの5位に入った。
2004年

松永体制2年目。外池が広島へ移籍した一方、6年ぶりにバロンが復帰。小倉または山崎光太郎との2トップが機能し開幕から得点を量産。一時は2位になるなどチーム状況は良好で、前期は3位で折り返す。7月31日にバロンが退団(その後鹿島に移籍)したものの第3クールまでは昇格争いに踏み留まったが、藤田と石原が怪我により長期離脱するとチームは失速。第4クールは2勝しかできずに7位でシーズンを終了した。
2005年
バレー(右)

大木が監督に復帰。大宮から移籍したFWバレーがこのシーズン、J2得点ランク2位の21得点を挙げる活躍。J1への自動昇格となる2位以上こそならなかったものの、仙台をかわして3位でシーズンを終えた。J1・J2入れ替え戦に連勝して、J1昇格が決まった。「2005年J2最終節」も参照
2006年 - 2007年(J1)
2006年

大木体制2年目。昇格初年度は限られた予算の中、元日本代表の林健太郎やJFLベストイレブンの宇留野純、6年ぶりにチームへ復帰した堀井岳也、札幌などでプレーしたビジュなどを獲得した。J1初戦は清水に敗れたが、J2で通用した走るサッカーが機能し始めた3戦目の川崎戦でJ1初勝利を挙げると、バレーや途中加入の茂原岳人らの活躍で横浜FM鹿島G大阪などに勝利したが、18チーム中15位の成績。なお、7位の名古屋との勝ち点差は6(9位の横浜FMとの勝ち点差が3)であった。
2007年
2007年J1第11節 川崎フロンターレ戦(5月13日、小瀬陸上競技場) でのコレオグラフィー

大木体制3年目。バレーがG大阪へ、倉貫一毅が京都へ、アライールヴェラノポリスECRCへ移籍した一方、ブラジル・コリチーバFCからFWアルベルトFC東京からDF増嶋竜也をそれぞれ期限付き移籍で獲得した。大木が新たに取り入れた戦術「クローズ」がうまく機能せず、開幕4連敗を喫し4月は3連勝などで残留争いから脱出したが、5月頃から再び連敗を重ね、第16節においてはジャッジに不満を持った茂原岳人と試合に出場していなかった林健太郎がトラブルを起こし出場停止を受けた[注 8]


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