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フランス革命戦争中
ヴァンデの反乱の開始である1793年3月11日のメーヌ=エ=ロワール県ショレの農民や王党派の決起。緑色の着衣の人物はアンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン
時1793年 - 1796年
場所ヴァンデ地方
結果革命軍の勝利
衝突した勢力
フランス共和国 カトリック王党軍(カトリック聖職者&農民など反革命からの王党派)
指揮官
ルイ=ラザール・オッシュジャック・カトリノー(元行商人の反乱指導者(1793年5月-7月14日))
モーリス・ジゴ・デルベ(初代総司令官)
アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン(3代目総司令官)
ヴァンデの反乱(ヴァンデのはんらん、仏: Rebellion Vendeenne)は、フランス革命期1793年3月10日からフランス西部地方4県にまたがるカトリック信仰に篤い地域から発生した農民蜂起・内戦である。革命政府による重税、徴兵令や、カトリック教会への抑圧(聖職者民事基本法)などの反発でフランス西部・ヴァンデ地方から始まった民衆蜂起は、「カトリック王党軍」という反乱軍を組織して、共和軍との数年に及ぶ内戦となった[1][2]。
フランス革命とはブルジョアジー層が本来は絶対王政の打破・立憲君主制国家樹立レベルを目指して起こした革命であったが、都市の下層民(サンキュロット)の熱量を吸収して激化し、各種王政自体の打倒・共和制移行まで突っ走った。そして、フランス革命政府(ジャコバン派政権)が、対外戦争に備えて、1793年2月24日に30万人募兵法を布告したものの、その徴兵は富裕な者は代りの者を出すことが許され、役人は兵役が免除されていたことから、農民層には著しく不利だと受け止められた。そして、以前からの都市に対する農村の不満も背景にあり、「都市住民(革命派)による農村破壊に対する異議申し立て」が反乱の形になった。反乱開始後から革命政府の国民公会の制定した法令により、反革命派へ徹底した弾圧が行われた内乱に発展したため、フランスではヴァンデ戦争(仏: Guerre de Vendee)とも言う。その後のフランス共和国の歴史はテルミドール9日のクーデター(革命派内の対立によるジャコバン派政権へのクーデター)、ナポレオン時代の後、復古王政による立憲王政化で農村共同体基盤社会が復活した。フランス共和国が近代化に向かったのは七月王政期の産業革命を経た後からである[3]。 1793年3月、不平等な30万人募兵令に反発しフランス各地で蜂起が起こった。大抵はすぐに鎮圧されたが、フランス西部ヴァンデ地方の農民たちは軍事経験の豊富な貴族たちを指導者に立て、優秀な指導者たちは蜂起軍を組織化していき、カトリック王党軍と名乗った。 なかなか鎮圧されない蜂起は国民公会の脅威となった。カトリック王党軍の主張はジャコバン派の主張との類似点が多数ある。 1793年8月、国民公会は「ヴァンデの絶滅」とする法令を制定し、共和国軍は少しずつ蜂起の地域を包囲する準備を進めていく。 10月17日のショレの戦いの敗北で本拠地を追われた約4万人のカトリック王党軍主力軍は、避難してきた約5万人の民衆を伴いロワール川を渡った。共和国軍に追われるカトリック王党軍は、度重なる戦い、飢餓、赤痢、冬の寒さ弾薬不足などにより弱体化していき、1793年12月のル・マン、サヴネの戦いの敗北によってカトリック王党軍の主力軍は壊滅し、組織的抵抗は終息した。 1794年1月21日以後、国民公会は地獄部隊を組織し、ヴァンデ地方で無差別な虐殺や放火をそれまで以上に激しく行った。戦いは少人数によるゲリラ戦に変化して長く不毛な戦いが続いた。ヴァンデ側の指導者は相次いで死亡して、1796年7月にはオッシュ将軍によって鎮圧宣言が出され、寛容令もあって宗教的動機をもった農民の反乱は終息に向かったが、今度は外国に援助された王党派亡命貴族が抵抗を継続した。コンコルダートを結んで和解を進めた第一統領ナポレオンが 1801年に正式に終結させた。 正確な数は不明だが、犠牲者は30万から40万人とも言われる。 ブルターニュ、メーヌ、アンジュー、ノルマンディーで発生したゲリラ組織「シュアヌリ
概要
経緯
武装蜂起ヴァンデ地方とカトリック王党軍の進路
元々、ヴァンデを中心とするフランス西部は信仰心の篤い地域だった。1789年に勃発したフランス革命には当初は好意的で領主権や十分の一税の廃止を喜んで受け入れたが、その後行われた教会と僧侶に対する弾圧、国王処刑、増税、30万人募兵の不公平に反感を持つようになった。特にキリスト教否定運動に対する反発は強く、ヴァンデでは大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がったのであった[4]。
そうした中、30万人募兵令に基づく徴集兵を決めるくじ引きが予定されていた1793年3月11日、メーヌ=エ=ロワール県ショレの人々が決起、各地の農民も蜂起し、わずか10日余りの間にフランス西部の3分の2の地域で騒乱状態となった。指導者にはそれぞれ軍人である地方貴族を担ぎ上げて、各地の反乱軍と合流しながら政府軍を打ち破り、ヴァンデ地方を支配下に置いた。国民公会は3月19日、「武器を所有している反乱者全員を処刑し、その財産を没収する」という厳しい処置を取ったが、国境に国民衛兵を送っているため兵力が不足しており、鎮圧することができなかった。反乱軍は次第に力を持ち始め、政府が国境の軍隊を配備しても、思うような成果はあげられなかった。
反乱軍は自らを「カトリック王党軍」と名乗り、行商人出身のジャック・カトリノーが最高司令官に選ばれた。ヴァンデの民衆反乱は当初3万人規模を擁する大規模なものであった[5]。この頃には連戦連勝で勢力圏を拡大し、ブルターニュのゲリラ組織シュアヌリ(ふくろう党)と合流するために6月にはナント市を攻略した。しかし、ナント市民は政府軍と協力して徹底抗戦した。カトリック王党軍がナントの市内にまで進入し勝利も目前だと思われたとき、最高司令官のカトリノーが銃撃に倒れ、兵士たちはパニックに陥り撤退を余儀なくされた。