ヴァンダービルト大学
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ヴァンダービルト大学
カークランド・ホール
大学設置/創立1873年
学校種別私立
設置者コーネリアス・ヴァンダービルト
本部所在地米国テネシー州ナッシュビル
学生数12,093、12,962
学部教育学部法学部経済学部医学部
研究科ロー・スクールビジネス・スクール
ウェブサイト ⇒http://www.vanderbilt.edu/
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ヴァンダービルト大学(英語: Vanderbilt University)は、米国テネシー州ナッシュビル市に本部を置くアメリカ合衆国私立大学1873年創立、1873年大学設置。南部ではかつてないほどの巨額の100万ドルを大学創立のために寄付した船舶や鉄道の大実業家であるコーネリアス・ヴァンダービルトにちなんで名付けられた。コーネリアスは彼の寄付、およびそれによって建てられる大学が南北戦争からの復興に役立つことを望んだ[1]

USニューズ&ワールド・レポート誌のランキングでは常に総合大学の全米TOP20にランクされ(2022年全国大学番付13位、ブラウン大学と同位)、世界第73位[2]THE世界大学ランキング2022では、全米15位、世界第98位。特に、ヴァンダービルト大学医学部(VUSM)とヴァンダービルト大学看護学部(VUSN)は全米TOP15で名高い。ヴァンダービルト大学ロースクール(VLS)も、全米TOP20で評価が高い。その他のアメリカ国内ランキングでも例年TOP20前後をキープしている名門校であり、最先端の研究、勝れたリベラルアーツ教育、名の知れたヴァンダービルト大学メディカルセンターを兼ね備えた大学である。また、Princeton Review誌のランキングで、生徒の幸福度が全米1位、生活の質が全米2位、キャンパスの美しさが全米5位と学業以外でも評価されている。全米で最も競争率の高い大学の1つであり、2023年の入学志望者の合格率5.6%はアイビー校に匹敵する難関である。

サザン・アイビー・リーグ校の一つであり、著名な卒業生や出身者の中には2名の副大統領、25名のローズ奨学生、7名のノーベル賞ピューリッツァー賞アカデミー賞受賞者などがいる[3][4]テキサス州ヒューストンライス大学ジョージア州アトランタエモリー大学などと並んで、「南部のアイビー」という異名を持つ。

現在全米50州と世界90カ国から約12,000人の学生が、4つの学部と6つの研究大学院および専門職大学院に在籍している。ヴァンダービルト公共政策研究協会、自由フォーラム憲法修正第1条センター、ダイアー天文台、ヴァンダービルト大学病院、中部テネシーで唯一のレベル1外傷センターなどいくつかの研究センターや機関と提携している。敷地外にある天文台やサテライト診療所などを除き、ダウンタウンからたった1.5 miles (2.4 km) のナッシュビルの中心地に、総面積330-acre (1.3 km2)の地に大学の全ての施設が存在する。都市的地域にありながら300種以上の木々を所有しており、大学のキャンパスそれ自体が樹木園とも言える。
歴史
創立および初期の頃コーネリアス・ヴァンダービルト

南北戦争の数年前、アメリカ南メソヂスト監督教会は教会の多い地域の中心部に教役者を養成するための地方大学を創立することを検討していた。ナッシュビルの司祭のホランド・マクティアによる陳情後、教会のリーダー達は1872年にナッシュビルに『セントラル大学』を創立することを投票。しかし資金不足と南北戦争による南部諸州の荒廃から大学の開校は延期になっていた[5]

翌年、マクティアは妻のいとこと再婚したコーネリアス・ヴァンダービルトの住むニューヨークの邸宅に滞在していた。当時ヴァンダービルトは全米一裕福であり、高齢になるにつれて慈善活動に積極的になっていった。彼は彼の母親に敬意を表し、自身の生まれ故郷であるニューヨーク州スタテン・アイランドに大学を創立する計画を立てていた。マクティアは彼に「全米の大学に通常ある学部の全てを備えた最強の大学を創立するための寄付」としてセントラル大学に50万ドルの寄付をしてくれるよう説得した[5][6]

この寄付金は最終的に100万ドル(2009年の貨幣価値で換算すると17,697,692 ドル[7])にまで増大し、ヴァンダービルトが2回しか行なわなかった経済的支援のうちの1回となった。彼自身は大学名に自分の名前を冠することを願っていた訳ではなかったが、マクティアおよび評議会員は『ヴァンダービルト大学』と命名する。1877年、ヴァンダービルトは自身の名を冠した大学を見ることなく亡くなった[5][8]

1875年秋、約200人の生徒が入学し、10月に開校した。ヴァンダービルトの寄付の条件としてマクティア司教は評議員長に就任。マクティアの指導者でランドルフ=メイコン大学(バージニア州)、アラバマ大学ミシシッピ大学の学長を務めたことのあるランドン・ガーランドを学長として迎えた。ガーランドは大学の組織を形成し、それぞれの分野で著名な学者を教授として雇用した[6]が、彼らのほとんどがマクティアに反発して大学を離れてしまった[5]
メソジスト教会との分裂ホランド・マクティア司祭

最初の40年間、評議会つまり大学はアメリカ南メソヂスト監督教会の全米総連の運営下にあった。大学の将来をめぐり、特に評議会員の選出方法やメソディスト信者でなくとも教授職に就くことの可否について大学陣営と教会側との間の緊張は高まった[5]

1893年、ジェイムズ・ハンプトン・カークランドが学長に任命されると論争はさらにエスカレートした。メソディスト教会南部支部の信徒団は30万ドルを集めるためのキャンペーンで5万ドルしか集められなかった[5]

1905年、評議会は5名の司教という、ごく少数のメソディスト代表者にしか投票しなかった。元教授で司教のイライジャ・エンブリー・ホスはメソディストによる支配を行使しようと企てるグループを率いていた。1910年、評議会は3名のメソディストの司教の参加を拒否。メソディスト教会は反発して裁判に訴え、地元レベルで勝訴した。1914年3月21日、テネシー州最高裁判所はメソディスト教会でなくコーネリアス・ヴァンダービルトが大学の創立者であって、評議会には誰でも立候補できるとした。1914年、 教会側は投票し151対140でヴァンダービルトと僅差となった。またこの時新しい大学、南メソジスト大学の創立の投票も行われ、エモリー大学の創立にも発展した[5][9]
1920年代から第二次世界大戦

1920年代から1930年代にかけて、大学内の作家グループフュージティヴスやサザン・アグラリアンズの作品などで全米に大きな影響を与えるなど、大学は知的好奇心を満たしていた[5]。またこの頃アーネスト・ウィリアム・グッドパスチャーとヴァンダービルト大学薬学部の彼の仲間は受精卵のウイルスリケッチアの培養のメソッドを考案。これは水疱瘡天然痘黄熱病発疹チフスロッキー山紅斑熱など菌の繁殖を病原体とするその他の疾病へのワクチンの製造を可能にした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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