ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ
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ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(: Валентин Фёдорович Морозов、1911年3月1日 - 1999年1月23日)は、20世紀日本で活躍した白系ロシア人の菓子職人、実業家。バレンタイン・F・モロゾフ、バレンティン・F・モロゾフとも表記される。

ロシアシンビルスク近郊、チェレンガ出身。創業期の神戸モロゾフ製菓株式会社(後のモロゾフ株式会社)に勤務し同社の発展の基礎を築いたが経営陣と対立して袂を分かち、「コスモポリタン製菓」を設立。日本における高級チョコレート製造の先駆けとされる[1]
生涯
ロシアを脱出し、日本へ

ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフは、1911年にロシアのシンビルスク郊外にあるチェレンガという町で生まれた。父親のフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ商人で、第一次世界大戦時には軍馬・軍服の調達にあたるなどロシア帝国のために働いていた[2]1917年ロシア革命が勃発すると、フョードルは家族を連れてハルビンへ逃れた。フョードルはハルビンを拠点に貿易を行い、白軍を支援しようとしたが計画は頓挫。1923年、一家はハルビンを離れアメリカ合衆国シアトルへ移住したが生活が成り立たず、1924年にシアトルを離れ日本神戸へ移住した[3]
菓子職人になる現在のトアロード

フョードルは日本が急速に西洋化しようとしていたことに目をつけ、西洋の食料品を売る事業を興そうと考えた。フョードルは試行錯誤の末、チョコレート菓子を中心に洋菓子を販売することにした。1926年3月、フョードルは白系ロシア人の菓子職人を雇いトアロード103番地に「Confectionery F.MOROZOFF」を開店。モロゾフも通っていた学校(セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ)をやめ、菓子職人として店を手伝うことになった[4]。父親が雇った職人は菓子の製法を教えようとしなかったため、モロゾフは下働きをしながら独学で菓子の製法を研究した[5][6]。モロゾフは、ロシア式の製法で作った菓子は日本人の口に合わないことに気づき、アメリカ合衆国やイギリスの専門書を購入し、両国における製法を習得した[7]
神戸モロゾフ製菓の従業員となる

1931年6月、事業拡大を目指し出資者を探していたフョードルは神戸商工会議所理事の福本義亮の紹介で、材木会社専務の葛野友槌の協力を得ることになった。葛野はモロゾフ親子が持っていた設備を買い取り、神戸モロゾフ製菓株式会社(後のモロゾフ株式会社)を設立。代表取締役は葛野が務め、フョードルは取締役として、モロゾフは専属技術者として同社に勤めることになった[8][9]。会社の経営は順調で、設立2年目には3500円あまりの黒字を出した[10]。私生活では1934年1月に白系ロシア人のオリガ・タラセンコと結婚した[11]
経営陣と対立、袂を分かつ

1933年頃からモロゾフ親子と葛野友槌の関係が悪化し始めた。発端は葛野が会社の会計帳簿をモロゾフ親子側に見せようとしないことにフョードルが不信感を抱いたことにあった。モロゾフ親子は会社の利益が一定の水準超えた場合にボーナスを受取る契約を交わしていたことから、葛野側がボーナスを支払うまいとして意図的に会社の業績を低く見せかけようとしていると疑うようになった[12]。さらに会社の運営方針を巡り、多種多様な菓子を売り出したいモロゾフ親子と商品の種類を絞って大量生産すべきだとする葛野側とで意見が対立した[13]

両者の対立が表面化したのは1933年末であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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