ヴァレリー・ソラナス
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ヴァレリー・ソラナス
生誕 (1936-04-09)
1936年4月9日
アメリカ合衆国ニュージャージー州ヴェントナー・シティ
死没1988年4月25日(1988-04-25)(52歳)
カリフォルニア州サンフランシスコ
市民権アメリカ合衆国
職業作家
運動・動向ラディカル・フェミニズム
子供1

主題ラディカル・フェミニズム
代表作男性根絶協会マニフェスト(SCUM Manifesto)
ウィキポータル 文学
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署名

ヴァレリー・ジーン・ソラナス(Valerie Jean Solanas、1936年4月9日 ? 1988年4月25日)は、『男性根絶協会マニフェスト』(SCUM Manifesto)を書いたアメリカのラディカル・フェミニストであり作家である。1968年に起きたアンディ・ウォーホルの殺害未遂事件の犯人としても知られている。

ソラナスの幼少期は壮絶だった。本人の証言によれば父親からは日常的に性的虐待を受けており、両親の離婚後も母や義父との関係は穏やかではなかった。やがて祖父母に引き取られて生活するようになるのだが、アルコール依存症だった祖父から肉体的に虐待されるようになったために祖父母のもとからも離れることになる。

高校卒業後はメリーランド大学カレッジパーク校に入学して心理学士号を取得した。それからカリフォルニア州バークレーに移り、彼女の作品として最も有名な『男性根絶協会マニフェスト』の執筆を始めた。このマニフェストは女性に「政府の転覆、貨幣システムの廃止、完全なオートメイションの達成と男性の皆殺し」をよびかけるものであった[1][2]。またソラナスは1950年代にはレズビアンであることをカムアウトしていた。

1960年代半ばには生活拠点をニューヨークに移した。彼女はそこでアンディ・ウォーホルと出会い、自分の戯曲作品『Up Your Ass』をプロデュースしてくれるよう依頼する。そのためにウォーホルに原稿を渡すのだが、後に彼女はウォーホルがその原稿を失くした、ひいては盗んだのだと非難するようになった。金銭的な補償を求めたソラナスに対して、ウォーホルは彼女を自身の映画『アイ・ア・マン(英語版)』に出演させ、その出演料として25ドルを支払った。1967年にソラナスは『男性根絶協会マニフェスト』を自費出版する計画をあたためていたが、オリンピア・プレスのオーナーだったモーリス・ジロディアス(英語版)から将来的に彼女の作品を出版するというオファーを受けた。しかしソラナスの理解によれば彼女が結ばされたのは、自分の作品がジロディアスのものになるという契約だった。ジロディアスとウォーホルが共謀して自分の作品を盗もうとしていると思い込んだソラナスが銃を購入したのは1968年の初めだった。

1968年6月3日、ソラナスはウォーホルのアトリエでありサロンでもあった「ファクトリー(英語版)」を訪れ、そこでウォーホルをつかまえると、彼めがけて3度発砲し、3発目の弾丸をウォーホルに当てて傷を負わせた。さらに美術批評家のマリオ・アマヤ(英語版)にも発砲し、続けてウォーホルのマネージャーだったフレッド・ヒュージに向かって至近距離で銃を構えて撃とうとしたが、薬莢が詰まって殺人は未遂に終わった。ソラナスは警察署に出頭し、殺人未遂、暴行、銃の違法所持で起訴される。統合失調症と診断されたうえで「加害の意図をもって危険を認識しながら暴行をふるったため」有罪となり、精神病院での治療期間も含めて3年の懲役を言い渡された。釈放後は自身の『男性根絶協会マニフェスト』を世に広める活動を続け、1988年にサンフランシスコで肺炎により亡くなった。
幼少期

ソラナスは1936年にニュージャージー州ヴェンターシティに生まれた。父のルイス・ソラナスはバーテンダーで、母のドロシー・マリー・ビオンドは歯科助手だった[3][4][5][6]。妹にはジュディス・アーリーン・ソラナス・マルティネスがいた[7]。父のルイスはモントリオール生まれで、彼の両親はスペインからの移民だった。母のドロシーはフィラデルフィア生まれで、ジェノヴァとシチリア出身の祖先をもつイタリア系アメリカ人だった。

ソラナスによれば、彼女の父親は日常的に彼女に性的虐待を加えた[8]。両親は彼女が幼いころに離婚し、母親はほどなくして再婚した[9]。ソラナスは義父のことを嫌い、不登校児になり母への反抗を始めた。子供の頃の彼女は、同じ子供同士が使うための悪口を考えてだしては好きに使わせていた。高校では年下の女子に嫌がらせをする男子を殴りつけ、理由があれば修道女にも手を挙げた[4]。その反抗的な態度から1949年に母親は自分の両親にソラナスを預けてしまう。ソラナスによれば祖父はアルコール中毒の粗暴な男で、よく殴られたという。15歳の時に彼女は祖父母のもとを離れて、ホームレスになった[10]。1953年には既婚者の水兵とのあいだに男の子を出産している[11][注釈 1]。息子のディヴィッド(後に別の家で養子に入りディヴィッド・ブラックウェルと名乗った)はソラナスの手から取り上げられ、それから彼女が息子に会うことは二度となかった[13][14][注釈 2]

そんな環境にもかかわらず、ソラナスは高校を留年することなく卒業し、メリーランド大学カレッジパーク校では心理学を専攻して、心理学の学位を得た[15][16]。学生時代、彼女はリスナー参加型のラジオ番組を持っており、そこで男と戦う方法についてのアドバイスまで行っていた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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