ヴァレリー・ジスカール・デスタン
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ヴァレリー・ジスカールデスタン
Valery Giscard d'Estaing

1978年1月5日
フランス
第20代大統領
任期1974年5月19日1981年5月10日
首相ジャック・シラク
レイモン・バール
フランス
第7代経済・財務大臣
任期1969年6月20日1974年5月27日
大統領ジョルジュ・ポンピドゥー
アラン・ポエール(臨時大統領)
内閣ジャック・シャバン=デルマス内閣
第1次ピエール・メスメル内閣
第2次ピエール・メスメル内閣
第3次ピエール・メスメル内閣
フランス
第3代財務・経済問題大臣
任期1962年1月18日1966年1月8日
大統領シャルル・ド・ゴール
内閣ミシェル・ドブレ内閣
第1次ジョルジュ・ポンピドゥー内閣
第2次ジョルジュ・ポンピドゥー内閣

出生 (1926-02-02) 1926年2月2日
ドイツ国 プロイセン自由州コブレンツ
死去 (2020-12-02) 2020年12月2日(94歳没)
フランス ロワール=エ=シェール県オートン(フランス語版)
政党フランス民主連合( - 2002)
国民運動連合(2002 - )
出身校国立行政学院
エコール・ポリテクニーク
配偶者アン・ジスカールデスタン
(1952年12月 - 2020年2月)
子女4人
署名

ヴァレリー・マリー・ルネ・ジョルジュ・ジスカールデスタン(フランス語: Valery Marie Rene Georges Giscard d'Estaing[注釈 1]、フランス語発音: [vale?i ma?i ??ne ???? ?iska? d?st??]1926年2月2日 - 2020年12月2日)は、フランス政治家。1974年5月から1981年5月まで同国の大統領を務めた。ジスカールまたはVGEとも呼ばれる。なお本項目では基本的に「ヴァレリー」と呼称する。
概要

1969年6月にジャック・シャバン=デルマスピエール・メスメルの両内閣で財務大臣を務めた後、1974年5月に実施された大統領選挙で社会党のフランソワ・ミッテランに50.8パーセントの得票率で勝利した。在任中は離婚・避妊・中絶などの社会問題に対してリベラルな態度を示し、国と大統領職の近代化を試みてTGVのような広範囲なインフラプロジェクトを立ち上げ、フランスの主要なエネルギー源としての原子力発電への依存度を高めた。1973年10月のエネルギー危機後の景気後退により、人気は低迷して第二次世界大戦後の「栄光の三十年間」の終わりを告げることになった。統一されたばかりのフランソワ・ミッテランの左翼側と、右翼側の野党路線でド・ゴール主義を復活させたジャック・シラクの台頭からの両側からの政治的な対立に直面した。1981年5月には高い支持率にもかかわらず、ミッテランとの対決で48.2パーセントの得票率で敗北した。

退任後は元大統領として憲法評議会の委員を務め、1986年3月から2004年4月までオーヴェルニュ地方議会議長を務めた。ヨーロッパ連合との関わりが深く、2002年2月に「欧州の未来に関する条約」の議長を務め、欧州憲法制定条約の起草に尽力した。2004年12月にセネガルのレオポール・セダール・サンゴール前大統領の後任として、アカデミー・フランセーズに選出された。94歳と304日を生きた史上最長寿の大統領となった。
略歴
生い立ち

1926年2月2日にドイツコブレンツで、フランス人官吏エドモン・ジスカールデスタンの子として誕生した。父のエドモンは元々「ジスカール」が姓であった。エドモンはフランス植民地金融社を1949年にSOFFOという名前で改組した(当ページを参照)。ジスカール家は代々アフリカ植民地の利権を受け継いできた[1]

ヴァレリーの母は中世以来の貴族であるエスタン家(フランス語版)出身であった。ところが、1922年に妻の実家であるエスタン家の男系が断絶してしまう。この頃のフランスでは革命当時と違って共和制を支持する貴族の家系に対しては、むしろ保護が与えられるべきとの考えが強まっていた。この為議会はエスタン家嫡流に近い女性を妻としていたエドモンに対してエスタン家の継承を要請し、これによって旧来の「ジスカール」に妻の実家である「エスタン」を重ね[注釈 2]、以後「ジスカールデスタン」[注釈 3]と名乗るようになったのである。ヴァレリーの誕生はその4年後の事である。ヴァレリーの母方において、ヴァレリーはフランソワ・ジョルジュ=ピコの又甥であった。
青少年期・政界進出

一家はパリ8区フォーブール=サントノレ通り71番地に居住した。ヴァレリーは青少年期に16区ポンプ通りの私立小学校 エコール・ジェルソンを経て、クレルモン=フェランリセ・ブレーズ=パスカル、16区リセ・ジャンソン=ド=サイイ、5区リセ・ルイ=ル=グランCPGEと、いずれも名門校に学んだ。時はナチス・ドイツによるフランス占領時代、バカロレア資格を得た後同校CPGEに戻らずレジスタンス運動に身を置いた。第二次世界大戦後にパリエコール・ポリテクニーク理工科学校)と国立行政学院(ENA)[注釈 4]に学んだ。

国立行政学院を卒業後に父と同様に財政監査総局(フランス語版)勤務を経て、エドガール・フォール首相の許で政策スタッフとなる。1956年1月に実施された総選挙でアントワーヌ・ピネー率いる独立農民派(CNI)から国会議員に当選し、第五共和政の成立でピネーが経済財務相として入閣すると、金融担当の秘書官となった。


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