1712年 - 1918年 →
(国旗)(国章)
ドイツ帝国内におけるヴァルデック=ピルモント侯国
首都アロルゼン
侯爵
1712年 - 1728年フリードリヒ・アントン・ウルリヒ
1905年 - 1918年フリードリヒ
変遷
創設1789年
滅亡1918年
ヴァルデック侯国(ドイツ語: Furstentum Waldeck)またはヴァルデック=ピルモント侯国(Furstentum Waldeck-Pyrmont)は、ドイツ中部にかつて存在した領邦国家。中世以来の領邦で、1712年に侯国(Furstentum)となり、1871年にドイツ帝国が成立するとその構成国となった。
地理ヴァルデック侯国の版図。南がヴァルデック、北がピルモント
ヴァルデック侯国は、ドイツ中部にあった領邦の一つである。首都ははじめヴァルデック、17世紀半ば以後はアーロルゼン(ともに現在はヘッセン州ヴァルデック=フランケンベルク郡に属する)に置かれた。
「ヴァルデック=ピルモント侯国」という名が示す通り、ヴァルデックやアーロルゼンを含む本土のほか、北方のハーメルン付近に飛地のピルモント(現在はニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属する)を有していた。ピルモントはもともと別の伯爵領で、17世紀に当時のヴァルデック伯領に加わった土地である(後述)。
ドイツ帝国時代、ヴァルデック侯国の領土はプロイセン王国に囲まれており、ヴァルデックはプロイセン領ヘッセン=ナッサウ州
とヴェストファーレン州の州境に位置していた。ピルモントはヴェストファーレン州内に飛び地の形で存在していた。なお、ヴァルデック領内にはヘッセン大公国領の2つの飛び地があった(参照:ウィキペディアドイツ語による1815?1866年のヘッセン大公国版図)。 ヴァルデックという名は、エーダー川沿いの小さな町(現在はヘッセン州ヴァルデック=フランケンベルク郡)の名で、この町にあるヴァルデック城を拠点とした一族がヴァルデック家である。ヴァルデック家の領土は、1200年頃から神聖ローマ帝国の伯爵領として存在した。ヴァルデック家は分割相続によりいくつかの小国に分かれるが、1692年にヴァルデック=ヴィルドゥンゲン家のクリスチャン・ルートヴィヒ (de:Christian Ludwig (Waldeck)
ヴァルデック城
アーロルゼン城(英語版)
ピルモント城
バート・ヴィルドゥンゲンのフリードリヒシュタイン城
コルバッハ付近のアイゼンベルク城の廃墟
歴史ヴァルデック伯の紋章 (1349–1712)
前史
なお、飛地となるピルモント伯領 (de:Grafschaft Pyrmont) は、1625年にヴァルデック=アイゼンベルク家が相続した土地である。1655年、ヴァルデック=アイゼンベルク家は宮廷をアーロルゼンに移し、以後この領邦の首都となる。 1712年、クリスチャン・ルートヴィヒの子であるフリードリヒ・アントン・ウルリヒ
侯国成立以後
3代侯フリードリヒ・カール・アウグスト (de:Friedrich Karl August (Waldeck-Pyrmont)) は、オランダの軍人として働くとともに、アメリカ独立戦争ではイギリス側に侯国の兵士を派遣した(#軍事節参照)。1807年、ヴァルデック侯国はライン同盟に加わった。なお、1805年にフリードリヒ・カール・アウグストは弟のゲオルク1世にピルモントを分与しているが、フリードリヒ・カール・アウグストが1812年に男子なく没したため、結局ゲオルク1世がヴァルデック侯を継いだ。ゲオルク1世の子であるゲオルク2世は1814年に憲法を制定したが、この中で規定されたヴァルデック領とピルモント領の地位については紛争を引き起こした。
1815年のウィーン会議によって、ヴァルデック侯国の独立の侯国としての地位が確認され、ドイツ連邦に加盟した。1845年のゲオルク2世死後、幼少のゲオルク・ヴィクトルの摂政となったのが、ゲオルク・ヴィクトルの母エンマである。