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ヴァルター・モーデル
Walter Model
渾名ヒトラーの火消し屋
生誕1891年1月24日
ドイツ帝国 ザクセン州ゲンティン
死没 (1945-04-21) 1945年4月21日(54歳没)
ドイツ国 ルール地方デュースブルク近郊
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ陸軍
軍歴1910年 - 1945年
最終階級 陸軍元帥
墓所ドイツ軍人墓地
署名
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オットー・モーリッツ・ヴァルター・モーデル(Otto Moritz Walter Model, 1891年1月24日 - 1945年4月21日)は、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。 ゲンティーン(現ザクセン=アンハルト州)生まれ。音楽監督オットー・モーデル
経歴
初期の軍歴
1918年11月11日の停戦後、後備第36師団はアーヘン経由でダンツィヒに戻り、そこで動員解除された。戦後も軍に残り、第17軍団(英語版)参謀将校、東部国境警備隊(ドイツ語版)、ミュンスターの第14歩兵連隊の第2大隊機関銃中隊長、戦術・戦史教官などを経験する。1929年、少佐に昇進し兵務局教育部に転属。1932年、中佐に昇進して翌年大隊長。1934年、大佐に昇進し第2歩兵連隊長(ドイツ語版)。1935年、陸軍参謀本部技術部長。1938年、少将に昇進し第4軍団参謀長。
「ヒトラーの火消し屋」司令部でのモーデル(左)右は第10SS装甲師団長ハインツ・ハルメルSS少将(1944年9月27日、アーネム)
第二次世界大戦が始まると、1939年のポーランド侵攻と翌1940年の西方電撃戦で第16軍参謀長を務めた。その後も第3装甲師団長、第41軍団長、第9軍司令官を務め、特に1941年からの独ソ戦では、1941年7月に騎士鉄十字章を受章、さらに1941年冬のモスクワ前面でのソ連赤軍の反撃に対し、就任した第9軍司令官として巧みな防衛戦で戦線を安定させ、ヒトラーの信を得た。この戦功により1942年2月に上級大将に昇進し、さらに立て続けに柏葉騎士鉄十字章、柏葉剣付騎士鉄十字章を授与された。その後も、第9軍司令官として、第二次ルジェフ会戦や、ルジェフ突出部からの撤退作戦など防衛戦に活躍し、「ヒトラーの火消し屋」の異名を得る。
しかし、1943年7月のクルスクの戦いにおいては、彼の第9軍は北部からの主攻撃を担当したが、ソ連赤軍の堅固な守りによって大きな戦果を上げることはできなかった。この際、ヒトラーのもとで行われた5月の作戦会議において、参謀総長クルト・ツァイツラー、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ、南方軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタインは作戦の即時実行を主張したのに対して、モーデルは自軍は準備不足であり、作戦開始は一ヶ月は延期すべきであるとの主張を押し通した。この結果、ソ連赤軍の防衛体制は更に増強され、作戦の失敗につながった。これについては、モーデルはもともと作戦自体に反対だったのであり、延期を繰り返すことによって作戦そのものを中止に持っていこうとしたとも言われている。
その後、一時の休養をはさんで、1944年1月には、レニングラード地区でソ連赤軍の攻勢を受けていた北方軍集団の司令官に就任し、とりあえず戦線を安定させた。その後3月には、解任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタインの後任として北ウクライナ軍集団の司令官に就任し、同時に元帥に列せられた。6月にはソ連の大攻勢によって粉砕された中央軍集団の司令官を兼任し、かろうじて戦線を立て直すことに成功した。同年7月にヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、ヒトラーに対し誓紙を差し出している。この事件の影響で、8月にギュンター・フォン・クルーゲの後任として西方軍総司令官およびB軍集団の司令官として西部戦線へ転任するが、ドイツ軍は連合国軍の急速な進撃によってファレーズ包囲戦で大打撃を受けるなど壊走状態となっており、状況はさすがのモーデルの手にも余った。この時モーデルは、ヒトラーから出されたパリ破壊命令を忠実に実行するよう、破壊命令に躊躇していたパリ防衛司令官のディートリヒ・フォン・コルティッツに命じている。
9月初めにゲルト・フォン・ルントシュテットが西方軍総司令官に再任されると、モーデルはB軍集団司令官の専任となり、翌1945年4月までその職にあった。