ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ
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ヴァルター・フォン・デア・
フォーゲルヴァイデ
Walther von der Vogelweide
マネッセ写本から(Folio 124r).
誕生1170年頃
死没1230年頃
ドイツ、ヴュルツブルク
職業詩人
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ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(ドイツ語: Walther von der Vogelweide, 1170年頃 - 1230年頃)は、ドイツの叙情詩の詩人。中世ドイツにおける質量とも他の追随を許さない第一の抒情詩人、「ミンネゼンガー」(ドイツ語: Minnesanger)。中高ドイツ語によって宮廷恋愛歌(ミンネザング)、教訓詩、格言詩、政治詩、挽歌、宗教詩と多分野にわたって傑作を生みだし、長く後世に大きな影響を与えた。ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクは『トリスタンとイゾルデ』において「歌人の群れの旗手となるべき人」「頭領」と讃えている[1]
生涯
出自

ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの名は公的な文書を探しても見つからない。ただ一つの例外は、旅先でのパッサウ司教ヴォルフガー[2]の勘定書に「Walthero cantori de Vogelweide pro pellicio .v. sol. longos(フォーゲルヴァイデの歌手ヴァルターへ 毛皮のコート代 5シリング)」と書かれていたことである[3]。他の主な情報源は、彼自身の書いた詩と、同時代の詩人たちの作品に見られる言及や引用である。同時代の叙事詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハには 'herre Vogelweide '(『ヴィレハルム』246,19、ハインツレ版)と 'herre ' (今日のドイツ語 'Herr '、英語の 'Sir 'に相当) をつけて呼ばれているが、それは、彼が貴族の出であることを意味するものではない。領主の家臣(ミニステリアーレ)ではあったかも知れない。作詞作曲演奏を生業とするドイツ最初のプロのアーティストであったことは、間違いがない[4]
出生地

ヴァルターの出生地は現在に至っても不明で、書かれた文書が少ないことから、正確に割り出すことは不可能である。名前も手掛かりにはなるかどうか微妙である。中世において、城や町の周辺に「フォーゲルヴァイデ」と呼ばれる場所は多く、そこは鷹狩りのための鷹や、家々のための鳴き鳥を捕まえておくところだった。

この点から、ヴァルターが広い地域で活動するのに、そういう名前を名乗っていたとは考えられない。なぜかというと、その名前が指し示すものはあまりに漠然としていて、役に立たないからである(普通、主人と旅する他の上流貴族や詩人は、彼らが何者か明らかにするため、所有するものか出身地を名乗っていた)。つまり、「フォーゲルヴァイデ」という名前は、その名前がその地域に一つしかない、あるいは比喩的に誰のことを言っているのかを理解してもらえる、狭い範囲でしか通じないわけである。

1974年、ヘルムート・ヘルナー(Helmut Horner)は Rappottenstein の土地台帳の中の1556年の記載に、ある農家のことが ?Vogelweidhof“ と書かれていることを突き止めた。この時期、そのあたりは Amt Traunstein に属していて、現在はシェーンバッハ(Schobach、低地オーストリアのヴァルトフィアテル Waldviertel)という町の中にある。その存在は1911年にアロイス・プレッサーも言及していたが、正確な位置がどこかわからなかったので、注釈していなかった。ヘルナーは、今なお残っている Weid という農家がVogelweidhof であることを立証し、ヴァルターがヴァルトフィアテルの生まれであるという説を打ち出した。彼はその説を、1974年出版の800 Jahre Traunstein(『トラウンシュタイン800年』)の中に記したが、ヴァルター自身の ?ze Osterriche lernt ich singen unde sagen“(オーストリアで私は詩を吟じ、歌を歌うことを学んだ)という言説をも根拠とした。当時「オーストリア」とは、今日の「ウィーンを中心とし、ヴァルトフィアテルを含む低地オーストリア」をさしていたからである[5]

中世末期のマイスタージンガー(職匠歌人)の世界では、ヴァルターはマイスターゲザング(職匠歌)創始者の一人とみなされ、身分はボヘミア出身の Landherr(領主?)といわれる伝承があった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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