ドイツ国の政治家ヴァルター・シェレンベルク
1943年、親衛隊上級大佐時代
生年月日1910年1月16日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国
ライン州
ヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルク(Walter Friedrich Schellenberg, 1910年1月16日 - 1952年3月31日)は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の情報機関SDの国外諜報局局長を務めた人物。最終階級は親衛隊少将兼警察少将 (Generalmajor der Polizei)。
経歴
生い立ち (Rheinprovinz) に属していたザールブリュッケンに出生。父はピアノ製造業者のグイド・フランツ・ベルンハルト・シェレンベルク (Guid Franz Bernhard Schellenberg)、母はカテリナ・リディア・シェレンベルク(Katherina Rydia Schellenberg, 旧姓リーデル/Riedel)。夫妻はシェレンベルクも含めて7人の子供を儲けており、シェレンベルクはその末っ子であった。母カテリナは子供たち全員にキリスト教(カトリック)教育を施した。父グイドがピアノ業者であったため、シェレンベルク家では音楽の教育も重視されており、シェレンベルクは8歳の時からチェロを習っていた。しかし23歳の時に落馬で両手を骨折し、それ以降、チェロを弾くのは止めたという[1][2]。
ザール地方は第一次世界大戦後にフランスに占領され、1920年からは国際連盟の管理地域とされた。シェレンベルク本人の回顧録によると父の会社は第一次世界大戦後の経済危機によって大きな打撃を受け、特に1923年には深刻となったため、父は支店のあったルクセンブルクへ移住したという。以降シェレンベルク家はザールとルクセンブルクをまたがって生活するようになったという[3][# 1]。
上級実科学校 (Oberrealschule) に入学したシェレンベルクは、歴史の授業に関心を持ち、特にルネサンスとルネサンス期の政治的文化的思潮に興味を持っていたという。また幼いころから外交問題に関心があったという。1929年春にここを卒業し、1929年夏にマールブルク大学に入学。1931年秋にはボン大学に移った。大学でははじめ医学を学んでいたが、のちに法律学に転じた。決闘の学生クラブにも参加している[1][3][4]。1933年3月18日にデュッセルドルフの地方裁判所の司法修習生試験 (Referendarexamen) に合格し、ジンツィヒ (Sinzig) の州裁判所やボンの州検事事務所、デュッセルドルフの州裁判所などで司法修習生としての訓練を受けるようになった。またデュッセルドルフの州秘密警察とも接触を持った。最終的にシェレンベルクは1936年12月18日に州司法試験 (Grose Juristische Staatsprufung) に合格している[5]。 1933年4月1日、その年の1月30日に政権を掌握していた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。党員番号は3,504,508。同日、親衛隊に入隊した。
ナチス親衛隊