ヴァリニャーノ
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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会司祭
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
個人情報
出生1539年2月15日
ナポリ王国
アブルッツォ州
キエーティ
死去 (1606-01-20) 1606年1月20日(66歳没)
マカオ
(当時・
墓所聖ポール天主堂
出身校パドヴァ大学
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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ、Alessandro Valignano / Valignani、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会宣教師カトリック教会司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
生涯と業績
イエズス会入会まで

1539年イタリアナポリ王国キエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、名門パドヴァ大学で法学を学んだ後、キエーティの司教をつとめた関係でヴァリニャーノ家と親交のあった教皇パウルス4世に引き立てられてローマで働くことになった。パウルス4世の後継者ピウス4世もヴャリニャーノの才能を評価し、より重要な任務につかせようとした。ヴァリニャーノはこれに応えて聖職者となることを決意し、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会した。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学んだが、この時の学友に後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva) がいた。

1570年、誓願を宣立し、司祭に叙階される。1571年から修練院で教えていたが、教え子の中には後に中国宣教で有名になるマテオ・リッチらがいた。1573年、総長エヴェラルド・メルクリアン(エヴラール・メルキュリアン) (Everard Mercurian) の名代として広大な東洋地域を回る東インド管区の巡察師に大抜擢された。イタリア出身のヴァリニャーノが巡察師という重要なポストに選ばれたのは、当時のイエズス会内の2大勢力であったスペイン・ポルトガルの影響による弊害を緩和するためであったといわれている。彼は1574年3月21日リスボンを出発し、同年9月にゴアに到着。管区全体をくまなく視察した。インドの視察を終えたヴァリニャーノは1577年9月にゴアを経つと同年10月19日マラッカに入った。
マカオから日本へ

ヴァリニャーノは1578年9月、ポルトガルが居留地を確保していたマカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として中国本土定住が果たせなかったことを知った。彼はイエズス会員が中国に定住し、宣教活動をするためにまず何より中国語を習得することが大切であると考えた。彼はゴアにあった東インド管区本部の上司に手紙を書き、この任務にふさわしい人物としてベルナルディーノ・デ・フェラリス(Bernardino de Ferraris)の派遣を願ったが、フェラリスはコーチのイエズス会修道院の院長として多忙をきわめていたため、代わりにミケーレ・ルッジェーリが派遣されることになった[1][2]

ヴァリニャーノは1579年7月、到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。ヴァリニャーノの指示にしたがってルッジェーリは中国語の学習に取り組み、この任務にふさわしい人材としてマテオ・リッチのマカオへの派遣をヴァリニャーノに依頼、ヴァリニャーノがゴアに派遣を要請したことでリッチがマカオに送られ、ルッジェーリとリッチの二人は1582年8月7日から共同で宣教事業に取り組んだ。
日本訪問

ヴァリニャーノが当時の東インド管区の東端に位置する日本[肥前国 口ノ津港 (現:長崎県南島原市) ]にたどり着いたのは1579年天正7年)7月25日のことであった。


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