ヴァスコ・ダ・ガマ
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この項目では、ポルトガルの航海者、探検家について説明しています。その他の用法については「ヴァスコ・ダ・ガマ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ヴァスコ・ダ・ガマ
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)
生誕1469年
ポルトガル王国シーネス
死没1524年12月24日
インドゴア
職業探検家、航海者
配偶者カテリナ・デ・アタイデ
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ヴァスコ・ダ・ガマのサイン。「Ho Comde Almirante(提督にして伯爵)」とある

ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama [?va?ku d? ???m?], 1460年頃 - 1524年12月24日/25日)は、ポルトガル王国海賊[1]探検家で、ポルトガルの国民的英雄である。熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。バスコ・ダ・ガマ(バスコ=ダ=ガマ)とも。
資料

ヴァスコ・ダ・ガマについて書かれた史料について現存するものは非常に少ない。これには、1755年に発生したリスボン地震が関係しているとされる。このときの地震と津波でリスボン市街は壊滅的な被害を受け、王立図書館に保管された記録の多くが失われ、その中で彼についての物も滅失したと考えられている。

資料的価値を持つものは、ジョアン・デ・バロスの『Decada da Asia de Joao de Barros feitos que os Portugueses fizeram na conquista e descobrimento das terras e mares do Oriente(東洋の陸と海の発見と征服においてポルトガル人の行った行為に関するジョアン・デ・バロスのアジアについての10巻の書。以下『バロス』)」であり、1部10巻構成で4部発行された。バロスは16世紀にリスボンのインド館に勤務した際に、そこにあった文書から著したもので、1552年から発行され始めた。次にフェルナン・ロペス・デ・カスタニェーダ(英語版)(1500-1559年)がインド旅行と帰国後の史料調査から著した『Historia do descobrimento & conquista da India pelos Portugueses(ポルトガル人によるインディアの発見と征服の歴史。以下『カスタニョーダ』)』がある。これらは『航海記』を参照した可能性があり、一致する部分が多く見られるが、異なる箇所も多い[2]。ガスパル・コレイア(英語版)(1495頃-1565頃)は赴任期間が終了してもインドに滞在し、『Lendas da Inldia(インディア記。以下『コレア』)』を著した。内容はヴァスコ・ダ・ガマ第一回航海に付随した修道士の日記や、当事者からの聞き取りなどが反映していると思われ、個別のエピソードに富むが、全体では不正確な記述が散見される[2]

第2回航海の史料では『コレア』の他に、帰国後に広く出版された著者不明の『カルクーン』がある。また別に『ヴァスコ・ダ・ガマの第二回インド航海』という作者不詳の記録もある。その他にも書記トメ・ロベスの記録『東インドへの航海』が、原典こそ失われたものの、イタリア語訳版が後世に伝わった[3]
前半生と家族生誕地シーネスにあるヴァスコ・ダ・ガマ像

ヴァスコ・ダ・ガマは1460年頃(1469年とも[4])にポルトガル、アレンテージョ地方シーネスで誕生したと考えられる。父エステヴァン・ダ・ガマはフェルナンドお抱えの[5]騎士階級の人物で後にシーネス町長に就いた。母はイサベル・ソドレはイギリス起源の名家の出であった[6]。兄にパウロとジョアン、弟にペドロとアイレス[7]、姉妹テリジャがいた[8]

ヴァスコがどのような教育を受けたかはっきりしないが、港町シーネスで生まれ育ったことから航海に対する知識や経験は身に付けたと思われる。また、若いときから宮廷に出仕したため、そこでさまざまな教育を受ける機会を持ったと考えられる[8]
第1回航海
背景

当時、西ヨーロッパ諸国は共通して王室の財政難を抱えていた。アフリカ進出や[9]マデイラ諸島サトウキビワイン生産などで[10]比較的余裕があるポルトガルも[9]カスティーリャ王国との対立、和解後のセウタ攻略などの出費は免れず[11]、この建て直しに迫られており、黄金香料が豊富なインディアスとの直接貿易が志向された[9]。また、東方のキリスト教国と言われたプレステ・ジョアンの国と連携する構想が現実味を帯びた。ジョアン2世が派遣した使節は陸路でエチオピアとの接触を果たし[12]、海路においてもバルトロメウ・ディアスを派遣し、1488年にはアフリカ大陸南端の喜望峰到達を達成していた[13]

しかし1492年、スペインの支援を受けたクリストファー・コロンブスが西回り航路でインディアス(実際はアメリカ大陸)に到達したことと[14]、その成果を受けて発布された教皇アレクサンデル6世教皇子午線はポルトガルにショックを与えた[15]。事実上ポルトガルの活動はアフリカ沿岸に絞られた[14]。1495年に亡くなったジョアン2世を継いだマヌエル1世はインド航路発見に積極的であり、計画が実行に移されることになった[16]

この艦隊派遣では、航路の発見に並びプレスター・ジョンの国およびインドとの親交と貿易の端緒をつくることが目的とされ、国王の親書が用意された[8]。このように、ヴァスコ・ダ・ガマの航海とは事前に計画が立案されたもので、コロンブスのように自ら未知の海域に踏み出したものとは根本的に異なる[8]
出発ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航

ヴァスコ・ダ・ガマが司令官に任命された経緯は不明瞭である。『バロス』によると、任命されていた父エステヴァンが死去したため後継したという。『カスタニョーダ』によれば最初の後継者に一度は兄パウロが指名されたが病気を理由に辞退したという。しかし『コレア』では、多くの立候補者をマヌエル1世が重臣らと広間で選考を行っている時にたまたまヴァスコが通りかかり、その場で彼が任命されたという[8]。しかし当時、バルトロメウ・ディアスは健在で、後述の通りヴァスコの航海途中まで船を率いて同行している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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