ヴァシリー・カリンニコフ
Васи?лий Кали?нников
基本情報
出生名Васи?лий Серге?евич Кали?нников
生誕1866年1月13日
出身地 ロシア帝国 オリョーリ県 オリョーリ
死没 (1901-01-11) 1901年1月11日(34歳没)
ロシア帝国 ヤルタ
学歴モスクワ楽友協会付属学校
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家
指揮者
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ヴァシーリー・セルゲイェーヴィチ・カリーンニコフ(Васи?лий Серге?евич Кали?нников ; Vasily Sergeyevich Kalinnikov, 1866年1月13日(ユリウス暦1月1日) - 1901年1月11日(ユリウス暦1900年12月29日))は、ロシアの作曲家。 オリョーリ県オリョーリ出身。イワン・ツルゲーネフと同郷である。貧しく倹しい警官の家庭に生まれる。後にやはり作曲家となった弟ヴィクトル
生涯
その後モスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに退学させられる。その後、奨学金を得て、モスクワ楽友協会付属学校
(英語版)でファゴットを学ぶかたわら、セミョーン・クルーグリコフ(ロシア語版)に和声法を、アレクサンドル・イリインスキーに対位法とフーガを、パーヴェル・ブラランベールク(ロシア語版)に管弦楽法を師事。師のクルーグリコフは後に親友となった。劇場の楽団でファゴットやティンパニ、ヴァイオリンを演奏するかたわら、写譜家としても働いて生計を立てた[1]。1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、それから同年にモスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。以前からの過労が祟って健康が悪化し、結核に罹患したために、やむなく劇場での活動を断念し、温暖な気候のもとでの転地療養を余儀なくされてクリミア南部に向かう。生涯の終わりをヤルタで過ごした。2つの交響曲とアレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイの『皇帝ボリス』のための劇付随音楽は、同地で作曲されている。
セルゲイ・ラフマニノフが楽譜出版社ユルゲンソンにかけ合ったおかげで、3つの歌曲が120ルーブルで買い取られ、その後『交響曲第2番 イ長調』も売れた。循環形式を用いた『交響曲第1番 ト短調』は、作曲者の存命中にモスクワのほかベルリンやウィーン、パリでも演奏されたが、病が悪化していたため1897年の初演に立ち会うこともかなわなかった。『交響曲第1番』の出版と35歳の誕生日を目前にして世を去った。ユルゲンソン社主ピョートルは、後にカリンニコフが受け取るべき報酬を増額して未亡人に支払った。
病のため、カリンニコフはウラル山脈の山荘に転居した。小品の多くがこの地で書かれたが、カリンニコフは稼ぎが無いまま一生を終えた。
遺された弟ヴィクトルは奉神礼音楽や合唱曲の作曲家となり、楽友協会付属学校の教壇に立った。 カリンニコフは、2つの交響曲といくつかの付随音楽、そして多数の歌曲を遺した。いずれの作品もみな、ロシア民謡の特徴に染め抜かれている。2つの交響曲、なかでも『交響曲第1番 ト短調』は20世紀初頭に頻繁に演奏された。近年カリンニコフの名声は消えかかっていたものの、交響曲は音源で接することが可能である。 カリンニコフの作風は、おおむねチャイコフスキーに倣って西欧的な楽曲構成法を採っていながらも、旋律や和声法に民謡や民族音楽の影響が自明であるように、国民楽派(「ロシア五人組」)からの影響も無視できない。このようにカリンニコフは、モスクワ楽派とペテルブルク楽派のいずれかに与するのではなく、その両方の伝統の美点を折衷した作曲家であった。折衷的という点においてグラズノフに似ていなくもないが、よりアカデミックで、洗練された作曲技法と緻密な構成を追究し続けた点でグラズノフはカリンニコフと異なっている。1899年からオペラ『1812年』の作曲にも着手したが、未完に終わった。 2曲の完成された交響曲こそは、美しい民族的な旋律と、色彩的な管弦楽法ゆえに、カリンニコフの代表作であると言っても過言ではない。
作風と作品
交響曲