ヴァイマル文化
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現代建築の泰斗・ヴァルター・グロピウスが設計し、1925年から1926年にかけて建設されたバウハウスデッサウ

ヴァイマル文化(ヴァイマルぶんか、Weimar culture. 「ヴァイマル」 は「ワイマール」 と発音されることも多い。)とは、ヴァイマル共和政期(1918年第一次世界大戦終結におけるドイツの敗北から1933年ヒトラー政権成立まで)に叢生した諸文化の勃興を指す[1]

この時代の知的成果は、人類史上最高水準の1つとして引用されることが多い。当時のドイツは理系分野はもとより文学哲学及び芸術の最先端を行く国とされ[2][3]、特に1920年代ベルリンはヴァイマル文化の牙城であった[1]

なお、ヴァイマル共和政には当てはまらないものの、ドイツ語圏で同様に第一次世界大戦後に共和制に移行したオーストリア第一共和国、就中ウィーンもヴァイマル文化の一部に含める場合がある[4]

ドイツの知的環境に重要な新展開が見られたのは、国内の大学が初めてユダヤ人学者に門戸を開いた1918年であった。代表的なユダヤ人としては、社会学者のカール・マンハイムエーリヒ・フロムテオドール・アドルノマックス・ホルクハイマー及びヘルベルト・マルクーゼ哲学者のエルンスト・カッシーラー及びエトムント・フッサール政治学者のアルトゥル・ローゼンベルクやグスタフ・メイエルらが挙げられる。

同時期にはドイツ人9名がノーベル賞を受賞しているが、このうち5名がユダヤ人であった[5]ように、ユダヤ人はヴァイマル文化の諸分野において重要な役割を果たす。

しかし保守派やナチ党といった右派は、これらの文化の多くを「退廃的」とみなした。1933年のヒトラー政権成立に伴い、これら「退廃的」な文化の担い手は、表現を変更してナチスに迎合するか、もしくは迫害、亡命の選択を迫られた。アメリカ合衆国イギリスなどへの亡命者はユダヤ人、非ユダヤ人を問わず多い。国内に留まった者は活動を禁止されたり、ひどい場合は強制収容所に入れられる者もいた。

ヴァイマル時代の文化は1960年代ドゥルーズガタリフーコーの他デリダら、主としてフランス革新系知識人から再評価を受けた[6]
時代状況
政治

第一次世界大戦敗北後、北ドイツの軍港・ヴィルヘルムスハーフェンに次いでキールにて水兵が総蜂起、これが帝政廃止や民主化などを求める労働者市民を巻き込む一大運動となった。ドイツ革命である[7]

その後、皇帝ヴィルヘルム2世退位オランダへの亡命が成り、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトへの宰相委譲が宣言されると、同党幹部のフィリップ・シャイデマンがヴァイマル共和政の成立を宣言[7]

ヴァイマル共和政は世界初の社会権を盛り込んだヴァイマル憲法を生み出したものの、革命の急進化を阻止する政府の動きが却って極左極右両勢力を刺激し、その勢力拡大が進行する事態となる。フランスとベルギーによるルール占領が行われた1923年には政情不安定はピークに達し、破滅的なインフレーションミュンヘン一揆などの政治的混乱が発生した[8]。しかしシュトレーゼマンヒャルマル・シャハトの尽力もあり、政治や経済は相対的な安定期を迎えた。1925年ロカルノ条約締結によってドイツは国際社会への復帰を果たし、1926年には国際連盟への加盟が認められた[8]。しかし1929年世界恐慌以降、経済悪化が社会不安を呼び、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の台頭を招いた。1933年、ヒトラーの首相就任とその後の権力掌握によってヴァイマル共和政は終焉する。
経済

第一次世界大戦で莫大な出費を強いられつつ敗戦国となったドイツは、終戦後の1919年に経済が最低に達しており、ヴァイマル共和政は経済的苦境の中発足する。その後賠償景気を経て、1922年には工業生産が戦前の7割にまで回復[9]

しかし、ドイツがヴェルサイユ条約により課せられた、1320億金マルクの賠償金支払猶予を戦勝国に要請した事から、フランスベルギーイギリスの反対を押し切りルール地方を占領。ルール地方支援に莫大な支出を余儀無くされたため、政府も通貨の無制限発行を行い、マルクの暴落とハイパーインフレーションを招く事となる[9]

1923年11月には、対ドル交換比率が1ドル4兆2000億マルクとなり、マルクが通貨としての機能を喪失。その中で国内の農・商工業資産を担保にし、金を基準とする新紙幣レンテンマルクを発行するに至る。発行額を限定した上で、1レンテンマルクを1兆マルクとする試みは功を奏し、記録的なインフレーションは急速に収束した[9]。その後はドーズ案ヤング案による賠償支払いの緩和やアメリカなどの外資導入もあって、経済は相対的安定期を迎えた。しかし、1929年の世界恐慌を機に再び崩壊の危機に陥る。共和政末期の1932年には失業率が29.9%となった。
社会構造

ヴァイマル共和政期は産業構造が近代化されつつも、次第に工業サービス業へと傾斜。第一次世界大戦前の1907年、ドイツの労働者の54.9%が手工業者であったが、1925年までには50.1%に落ち込んでいる。

一方、事務員マネージャー官僚が同時期に10.3%から17%へと増加した。緩慢ながらも、都市化や中産階級の成長が見られるようになったのである。

しかし、1925年までには国民の3分の1しか大都市に住んでおらず、残りは中小都市か農村部の居住者であった[10]。戦争による喪失と領土割譲を経ながらも、ドイツの全人口は1920年の6240万人から、1933年には6520万人に増加[11]


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