ヴァイダ・ブルー
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ヴァイダ・ブルー
Vida Blue

基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ルイジアナ州マンスフィールド
生年月日 (1949-07-28) 1949年7月28日
没年月日 (2023-05-06) 2023年5月6日(73歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
189 lb =約85.7 kg
選手情報
投球・打席左投両打
ポジション投手
プロ入り1967年 ドラフト2巡目
初出場1969年7月20日
最終出場1986年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


オークランド・アスレチックス(1969 - 1977)

サンフランシスコ・ジャイアンツ(1978 - 1981)

カンザスシティ・ロイヤルズ(1982 - 1983)

サンフランシスコ・ジャイアンツ(1985 - 1986)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ヴァイダ・ロシェル・ブルー(Vida Rochelle Blue, 1949年7月28日 - 2023年5月6日[1])は、MLBプロ野球選手。ポジションは投手アメリカ合衆国ルイジアナ州マンスフィールド出身。
経歴
オークランド・アスレチックス

1967年MLBドラフトカンザスシティ・アスレチックスから2巡目に指名を受け入団。球団は1968年オークランドに移転。1969年7月20日カリフォルニア・エンゼルス戦でメジャーデビュー。1970年は開幕をマイナーで迎えたが、AAA級で12勝3敗・防御率2.17、133イニングで165奪三振を記録し、9月に昇格。9月11日カンザスシティ・ロイヤルズ戦で8回2死までノーヒットに抑え、1安打でメジャー初完封勝利。9月21日ミネソタ・ツインズ戦では1四球のみでノーヒットノーランを達成した。

1971年は初の開幕投手を務め敗戦投手となるが、次の試合から5完封を含む10連勝。7月9日のエンゼルス戦では勝利こそ付かなかったが11イニングで17奪三振を記録するなど、前半戦で17勝3敗・防御率1.42・188奪三振の好成績を挙げ、オールスターゲームに初選出され先発投手を務めた。24勝8敗・防御率1.82・301奪三振、共にリーグトップの8完封・WHIP0.95を記録して最優秀防御率のタイトルを獲得し、チームの地区優勝に貢献。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが7回5失点で敗戦投手となり、チームは3連敗で敗退した。オフにMVPサイ・ヤング賞を同時に受賞した。1972年は故障で出遅れ、打線の援護にも恵まれず6勝10敗だったが、防御率2.80・4完封を記録。チームは地区連覇を果たし、デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズではリリーフとして4試合に登板。第5戦では6回から登板して4イニングを無失点に抑えてセーブを記録し、チームは1931年以来41年ぶりのリーグ優勝。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第1戦でセーブを挙げる。第4戦では8回のピンチでリリーフするが逆転打を浴び、第6戦では先発するが敗戦投手。チームは4勝3敗で42年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。1973年は後半戦で11勝を挙げ、20勝9敗・防御率3.28を記録し、チームの地区3連覇に貢献。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが1回途中4失点の乱調で敗戦投手。第4戦では6回まで2安打無失点に抑えたが7回に集中打を浴びて降板。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第2戦と第5戦に先発。勝利は挙げられなかったが、チームはワールドシリーズ連覇を達成した。1974年は開幕4連敗を喫するがその後は復調し、17勝15敗・防御率3.25の成績でチームは地区4連覇。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、2安打完封でジム・パーマーとの投手戦を制してポストシーズン初勝利を挙げ、リーグ3連覇に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは前年と同じ第2戦と第5戦に先発し、またしても勝利は付かなかったが、チームは4勝1敗で史上3度目のワールドシリーズ3連覇の偉業を成し遂げた。1975年は前半戦で12勝を挙げ、4年ぶりにオールスターゲームに選出されて2度目の先発投手を務めた。9月28日のエンゼルス戦ではローリー・フィンガーズら4投手との継投でノーヒッターを達成するなど22勝11敗・防御率3.01を記録し、チームは地区5連覇。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが4回途中3失点で降板。チームは3連敗で敗退し、ワールドシリーズ4連覇の夢は絶たれた。1976年フリーエージェント制度の影響で年俸高騰に悩んだオーナーのチャーリー・O・フィンリーが主力選手の放出を画策。6月15日ニューヨーク・ヤンキースへの移籍が成立するが、6月18日に無効となった。後半戦で11勝・防御率1.69を記録し、18勝13敗・防御率2.35の好成績を挙げ、サイ・ヤング賞の投票で6位に入った。1977年は3連覇時の主力が次々とチームを去り一気に弱体化。いずれもリーグワーストの19敗(14勝)・284被安打・119自責点に終わった。
サンフランシスコ・ジャイアンツ

1978年3月15日ゲーリー・トマソン(後巨人)他6選手プラス30万ドルとの交換トレードで、同じベイエリアに本拠地を置くサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。同年は序盤に6連勝、6月10日から10連勝を記録するなど前半戦で12勝を挙げ、オールスターゲームでは史上初めて両リーグで先発投手を務めた。18勝10敗・防御率2.79を記録し、サイ・ヤング賞の投票で3位に入った。1979年4月19日サンディエゴ・パドレス戦でキャリアワーストの10失点ながら勝利投手となる。制球が悪く不安定な投球が続き、14勝を挙げたがリーグワーストの132自責点、キャリアワーストの111四球と不振。1980年は5月9日から7連勝を記録。途中約1ヶ月の離脱もあったが、14勝10敗・防御率2.97と復活した。1981年9月6日シカゴ・カブス戦で7回1死からビル・バックナーに打たれるまでノーヒットに抑える。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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