ンガプー・ンガワン・ジクメ
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ジクメ1951年5月、毛沢東とジクメ(右).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。

ンガプー・ンガワン・ジクメ あるいは アポ・アワン・ジクメー(: 阿沛・阿旺晋美; .mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: ?pei ?wangjinm?i; ワイリー方式:nga phod ngag dbang 'jigs med; 蔵文?音:???????????????????????; 1910年2月1日 - 2009年12月23日)は、チベット政治家。日本語文献では「アポ・アワン・ジグメ」、「アポ・アワン・ジクメ」、「アペイ・アワン・ジンメイ」、「ガプー」、等と表記されることもある。
略歴
若き日

ラサチンギス・ハーンの子孫[1]と伝えられるモンゴル系チベット貴族ホルカン家に生まれ、イギリスに留学している。1932年に学業を終えると、チベット軍に入る。1935年にNyapoi Cedan Zhoigar (Apei Caitan Zhouge、阿沛・才旦卓?)と結婚する[2]

1945年ツィポン(財務大臣)、1950年カロン(俗人大臣)兼ドチ(カムの知事)[3]、さらにチベット陸軍の指揮官を兼務する[2]
チベット侵攻

1950年1月1日、中国共産党はチベットの攻略計画をラジオ放送を通じて宣言した。それに対抗するため、カムの知事であるジクメは軍による国境警備を強化した[4]

1950年10月7日張国華を司令官とする人民解放軍(中国軍)4万人が6ヶ所から東チベット攻略を開始した(中国のチベット侵攻開始)。8500人程の武装したチベット人が抵抗するがチャムドの戦いで敗れた。[4]。ジクメは武器弾薬庫の爆破を命じ、それをきっかけにチャムドは大混乱に陥った。ジクメは高官の服装を平役人の服に着替え、逃亡を図った。ある僧院で部下400名を率いる部族長に抵抗を続けるよう要望されるが、ジクメは武器を捨てて投降するよう命じた[5]。ジクメは10月17日[4]降伏を認め、人民解放軍の演出で「人民解放軍を歓迎するチベット僧」や「降伏調印書に署名するジクメ」の様子が撮影された[5]。ジクメは投獄され、中国の牢獄で思想教育を受け、地域解放委員会の副主席に昇格した。その後のジクメは「中国の目的はチベット人民への奉仕である」と主張し、ラサ政府に交渉に応じるよう呼びかけた[4]

一方、この侵攻を受けて、チベット中央ラサでは11月7日ダライ・ラマ14世が即位、事態に対する本格的な対応を始めた。ラサ政府は2月に交渉役をチャムドに派遣、交渉は北京で続けられることになった[4]
十七か条協定

1951年4月、北京を訪れたチベット代表団を当時の中国首相周恩来が迎えた。交渉は、中国民族委員会主席の李維漢とジクメが進行した。しかしチベット政府がこの代表団に与えた権限は、「ガンデンポタン領に侵攻した中国軍の撤兵に関する交渉」であって、「中国政府に対しチベットが中国とは別個の独立国家であるという主張を取り下げる」あるいは「中国によるチベット併合に同意する」等の権限は与えられていなかったため、交渉は滞った。中国側代表は事前に合意文書(いわゆる十七か条協定)を用意しており、「合意が無ければ人民解放軍は侵攻を続ける」と最後通牒を突きつけて合意を強制し、5月23日にチベット代表団に署名させた[4]。この時に使われたチベットの印は、中国側が偽造したものであるとされている[4]

1951年5月26日、ジクメは中国国際放送を通じて十七か条協定署名を海外に宣した。ダライ・ラマ14世は避難地ヤトンでそれを聞いて驚いた。まもなくダライ・ラマ14世の元にチベット、中国双方の関係者が訪れて、ラサ議会で協定を諮詢するよう求めた。ダライ・ラマ14世は周囲の僧達の希望もあって、ラサ帰還に合意した[6]

1951年9月の終わり、ラサ議会は十七か条協定合意の是非について話し合った。ジクメはこの時演説し「この協定でダライラマの権力はいささかも変わることがない。


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