ワールド・チャンピオンシップ・モータースポーツ(World Championship Motorsports, WCM)は、かつてロードレース世界選手権に参戦していたレーシングチーム。ブラータWCM(2005年イギリスGP、ジェームス・エリソン) 1992年にアメリカのモータースポーツ愛好家ボブ・マクリーンと、イギリスのエンジニア兼ジャーナリストのピーター・クリフォードにより設立された。同年よりROCヤマハ(ROC[要曖昧さ回避]製のフレームにヤマハ・YZR500用のエンジンを搭載したマシン)でロードレース世界選手権500ccクラスに参戦を開始する。ニール・マッケンジーやニール・ホジソンらの活躍で、ライダーズランキング10位前後という、プライベーターとしてはかなり良好な成績を何度か残した。 1997年、チームに転機が訪れた。シーズン開幕時にはカーク・マッカーシー 1998年、チームはレッドブルの地元オーストリアに本拠地を移した。ライダーのラインナップは一新され、サイモン・クラファーとレジス・ラコーニがYZRを駆った。第8戦ドニントンで、クラファーはチームに初の勝利をもたらした。 翌1999年は、第12戦バレンシアでラコーニが自身初となる勝利を果たした。一方クラファーはミシュランタイヤへの順応に苦しみ低迷、シーズン途中でギャリー・マッコイと交代になった。マッコイはラコーニが勝利したバレンシアで3位表彰台を獲得した。 2000年がチームにとっての絶頂期となった。マッコイとラコーニは共にチームに残留し、マッコイがシーズン3勝を果たしシリーズ5位を獲得した。また、彼のスライド走法を駆使した豪快なコーナーリングは多くのメディアやファンの注目を集めるところとなった。 翌2001年はラコーニに代わって前年度スーパーバイク世界選手権シリーズ2位の芳賀紀行がチームに加入した。マッコイは怪我の影響もあって未勝利のシリーズ12位に終わる。芳賀も乗り慣れないYZR500に手こずってシリーズ14位に沈んだ。 2002年、500ccクラスは再編されてMotoGPクラスとなり、新たに4ストローク990ccのマシンが主力となったが、WCMは旧型のYZR500を使い続けることになった。芳賀に代わって加入したジョン・ホプキンスは、ルーキーとしてはまずまずの活躍を見せてシリーズ15位に入った。一方マッコイは怪我で欠場することも多く、シリーズ20位に沈んだ。6年間スポンサーを務めたレッドブルはこの年をもってチームを去り、翌年からは125ccクラスのKTMチームをサポートするようになった。 2003年、ライダーラインナップは一新されクリス・バーンズとラルフ・ワルドマンのペアとなった。チームはイギリスのハリス・パフォーマンス・プロダクツ ROCと同様、かつてYZR500のエンジンを搭載したオリジナルフレームのマシン(ハリス・ヤマハ)を開発していたハリスと共に、今度は市販車のYZF-R1のエンジンをベースとしたオリジナルの4ストロークMotoGPマシンを開発した[1]が、このマシンはFIMにより失格処分が下された[2]。テクニカルレギュレーション中の「プロトタイプのマシンのみ参戦可」の条文に、多くのエンジンパーツをYZF-R1と共用する点が抵触していると判断されたためである。 チームは国際規律裁判所に控訴したが、決定が覆ることはなかった[3]。さらにスポーツ仲裁裁判所に控訴したが却下され、失格が確定となった[4]。この裁定を受けて、第8戦ドニントンよりチームは1993年型のROCヤマハと、2001年型のセイバーV4
チームの歴史
ROCヤマハ時代
レッドブル・ヤマハ時代
ハリスWCM時代
2003年
2004年はクリス・バーンズとミシェル・ファブリツィオのペアになったが、バーンズはシーズン半ばで怪我のためジェームス・エリソンに交代となった。さらにエリソンは途中でアプリリアに移ることになり、その代役を宇井陽一が務めた。 2006年の暫定エントリーリストでは、WCMはビモータエンジンを搭載し、ジェレミー・マクウィリアムスとジェイソン・ペレス
2005年(ブラータWCM)と提携し、チーム名も新たにブラータWCMとして戦うことが発表された[7]。ジェームス・エリソンとフランコ・バッタイーニをライダーに、チームは当初は従来型のハリスWCMで戦い、第11戦ブルノには新しいV6エンジンを搭載したマシンがデビューするはずであったが、結局V6マシンがレースを戦うことはなかった[8][9]。この年がWCMチームのGP参戦最終年となった。
2006年以降の動き