「ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ」あるいは「ワーナー・ブラザース・ディスカバリー」とは異なります。
ワーナー・ブラザース・エンターテインメント
Warner Bros. Entertainment Inc.
カリフォルニア州バーバンクのワーナー・ブラザースのスタジオオフィス
商号ワーナー・ブラザース (Warner Bros.)
以前の社名
ワーナー・ブラザース・クラシック・オブ・ザ・スクリーン (Warner Brothers Classics of the Screen, 1923 - 1925)
ワーナー・ブラザース・プロダクション (Warner Brothers Productions, 1925 - 1929)
ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ・インク (Warner Bros. Pictures, Inc., 1929 - 1967)
ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ (Warner Bros.-Seven Arts, 1967 - 1970)
ワーナー・ブラザース・インク (Warner Bros. Inc., 1970 - 1993)
種類子会社
業種エンターテインメント
前身ワーナー・フィーチャーズ・カンパニー
設立1923年4月4日 (101年前) (1923-04-04)
創業者ハリー・ワーナー
アルバート・ワーナー
サム・ワーナー
ジャック・L・ワーナー
本社カリフォルニア州バーバンク4000ワーナー・ブルバード
事業地域世界中
主要人物マイケル・デ・ルカ&パメラ・アブディ(共同会長&CEO、ワーナー・ブラザース・モーション・ピクチャーズ・グループ)
チャニング・ダンジー(会長、ワーナー・ブラザース・テレビジョン・グループ)
製品
映画
出版
音楽レコーディング
テレビジョン
コンピュータゲーム
売上高 US$12.15 billion (2020)
営業利益 US$2.07 billion (2020)
所有者ワーナー・ブラザース・ディスカバリー
従業員数Est. 8,000 (2014)
部門ワーナー・ブラザース・モーション・ピクチャーズ・グループ
ワーナー・ブラザース・テレビジョン・グループ
DCスタジオ
ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ・アニメーション
ワーナー・ブラザース・シアター・ベンチャーズ
ワーナー・ブラザース・デジタル・ネットワーク
ワーナー・ブラザース・スタジオ・ファシリティーズ
子会社
キャッスル・ロック・エンターテインメント
ニュー・ライン・シネマ
ターナー・エンターテインメント
ウォータータワー・ミュージック
ワーナー ブラザース ジャパン
ウェブサイト ⇒www.warnerbros.com
Footnotes / references
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ワーナー・ブラザース・エンターテインメント(Warner Bros. Entertainment Inc.、通称:ワーナー・ブラザース、略称:WB)は、カリフォルニア州バーバンクのワーナー・ブラザース・スタジオに本社を置く、アメリカの多国籍マスメディアとエンターテインメントの複合企業であり、ワーナー・ブラザース・ディスカバリーの子会社でもある。 1923年にハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟によって設立され、アメリカの映画産業のリーダーとしての地位を確立した後、アニメーション、テレビ放送、ビデオゲームなどに事業を拡大し、アメリカの主要映画スタジオ「ビッグ5」の1つであるとともに、モーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)のメンバーでもある。 ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ、ニュー・ライン・シネマ、ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ・アニメーション、キャッスル・ロック・エンターテインメント、DCスタジオを含む、映画スタジオ部門であるワーナー・ブラザース・モーション・ピクチャーズ・グループで知られている。その他の資産としては、テレビ番組制作会社のワーナー・ブラザース・テレビジョン・スタジオ、ビデオゲーム開発・出版部門のワーナー・ブラザース・ゲームス、放送テレビネットワークのThe CW(パラマウント・グローバルとの共同所有)の50%の権利などがありまある。また、出版、マーチャンダイジング、音楽、演劇、テーマパークなど、様々な部門を運営している。
概要
ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟はポーランドからの東欧系ユダヤ人移民労働者であった。19世紀末に両親とともにドイツ・ハンブルクを経て、アメリカ大陸に渡りカナダのオンタリオ州ロンドンに移住し、全部で8人の兄弟姉妹が貧困の中で父の経営する靴修理屋を手伝いながら生活していた。
兄弟はそれぞれの趣味と才能を伸ばし、長兄ハリーは店を拡大、ジャックは歌手として修行に励み、サムは職業を転々とするが、20世紀初頭の映画の創生時、ハリーはその魅力に取り憑かれて映写技師となった。彼は1903年に兄弟と興行会社を組み、ジャックのパフォーマンス付きで映画興行業を開始、オハイオ州やペンシルベニア州の鉱山町を巡業した。同年、ペンシルベニア州ニューキャッスルに劇場をオープン、その後1904年、ピッツバーグで配給会社を設立しエクスチェンジ業(→スタジオ・システム)に進出して収益を上げた。しかし1908年、発明王トーマス・エジソンが、映画配給を独占するトラスト「モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー」(別名エジソン・トラスト)を設立したことで映画館は大きな打撃を受ける。エジソンは、保有する多数の映画関係の特許をたてにし、トラスト参加各社の作る映画を上映する度に映画館から料金を徴収した。トラストの圧力によって多数の映画業者が配給網を絶たれ、ワーナー兄弟も一度は業界から手を引く。1922年のハリウッドのスタジオ群
しかし映画製作の夢を秘め続けたサムは、再び兄弟を説得して1918年にハリウッドに映画スタジオを構え、ハリーたちはニューヨークで資金調達や配給を行った。1923年、ワーナー兄弟はワーナー・ブラザース・ピクチャーズを会社登記する。
映画製作の最初の一歩は、脚本家アヴェリー・ホップウッド(Avery Hopwood)の1919年のブロードウェイ演劇『ゴールド・ディガーズ(The Gold Diggers)』の権利購入であったが、会社成長のきっかけは第一次世界大戦後に、ある兵隊がフランスから連れ帰った一匹の犬、リン・チン・チン(英語版)であった。この犬を主人公にした映画「名犬リンチンチン」シリーズは1924年以降26本作られ、ハリウッド有数のスタジオへと押し上げた。
これらの成功によりウォール街からの投資を受けるようになり、1924年には同じユダヤ系資本のゴールドマン・サックスから巨額の融資を得た。この資金で、1897年以来の歴史を持つハリウッドの先発スタジオで全国規模の配給網も所有していたヴァイタグラフ(Vitagraph Company)を1925年に買収、さらにラジオ放送にも進出し、ロサンゼルスのKFWBをはじめ幾つかの都市に放送局を誕生させた。また映画業界を荒れ狂っていた劇場建設・買収の競争にも参入した。
トーキーとカラー映画の導入『ジャズ・シンガー』
ヴァイタグラフが進めていた音声と映像が同期したディスク式有声映画システム、ヴァイタフォンの開発を引き継ぐこととなり、1926年よりこのシステムを利用して音楽や効果音のある有声映画の製作を開始。1927年10月には、これをさらに進め、部分的にせりふのある世界初の長編映画である『ジャズ・シンガー』を配給した[注釈 1]。これがトーキー時代の幕開けであり、これはハリウッドにセンセーションを巻き起こす事象であったが、『ジャズ・シンガー』公開前にトーキー開発に熱心だったサム・ワーナーが死去、彼の葬儀のためワーナー兄弟は『ジャズ・シンガー』のプレミアに出席することはできなかった。
この映画の成功で得た資金により、大手配給会社スタンレーを1928年に買収し、スタンレーが3分の1を所有していたワーナーのライバルである大手映画製作・配給会社ファースト・ナショナル(First National Pictures)の買収に王手をかけた。ウィリアム・フォックス率いるフォックス・フィルム(20世紀フォックスの前身)との激しい買収合戦の末、1929年にファースト・ナショナルの経営権を得ることに成功したが、大恐慌が映画業界を直撃、ファースト・ナショナルと合併し、同社がバーバンクに所有していたスタジオに移転した。裁判所より合併を認められたが、1938年まで毎年何本かの映画をファースト・ナショナルの名義で製作・配給するよう要請され、その後30年間にわたり「ワーナー・ブラザース=ファースト・ナショナル(A Warner Bros. - First National Picture)」名義での製作が行われた。
1928年、世界初の初の全編音声付きトーキー長編映画『紐育の灯』を製作し成功を収めた[注釈 2]。1929年、テクニカラーを使用した『エロ大行進曲(On with the Show)』を製作、それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。